イオンモール神戸北はもはや実家である
※これはイオンモール神戸北にある「喜久屋書店 神戸北店」で、わたしの本「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」を購入してくださった方に、数量限定でお渡ししている特別短編エッセイです。
ちょっとビビるほどのスペースで展開してもらっていて、これ売れなかったら神戸北から追放されるくらい肩身が狭いので、よかったらお立ち寄りください。
こんな感じで、わたしが一枚一枚、鶴のように印刷して、直筆でサインをしています。
どうしても地方で行けないよ〜!神戸北ってイノシシ出るんでしょ〜!っていう人のために、noteで読めるようにしました。
イオンモール神戸北といえば、わたしが二十歳で故郷を出るまで、第2の実家だった。
これがまあ、誇張ではない。
F駐車場の看板に鎮座している黄色いキツネのイラストは祖母の顔より多く見たし、島村楽器の電子ピアノは何度も意味なく試奏したし、棚が賑やかすぎるカルディでコーヒーを飲みながら目を回すし、今もあるかわからないが一階に置かれたバカでっかい透明の募金箱の中に紛れた外国のお金を血眼になって探したし、あなたがこの本を買ってくれた喜久屋書店では人生を支えてくれた本を何冊も買って帰った。
この安心感とフリーダム感は、もはや実家といっても過言ではない。たぶん。
週に一度、毎週水曜日には必ず、母とわたしと弟の一家総出でここへ来ていた。イオンモール神戸北がそうして実家と化したのは、母が病気の後遺症で、車いすに乗って生活するようになってからだ。
「歩けないなら死んだほうがマシだった」と嘆く母を救ったのは、僭越ながらわたしと、そして一台の赤い車だった。ブレーキとアクセルを改造してもらい、足が動かなくても、手で運転できるようになった車。
これを手に入れたときの母の喜びようったら、もう、すごかった。
でも、車いすから運転席へ乗り込むには、ドアを全開にして車いすを横づけしないといけない。普通の駐車スペースでは足りないのだ。わたしたちの住む田舎町には、車いすのための広い駐車スペースなどほとんど見当たらず、ドライブに出かけたはいいけれど、市役所か病院くらいしかたどり着けない日々が続いた。
そんな折に、イオンモール神戸北ができた。都会では滅多にお目にかかれない「これが俺たちのイオンだ!」をすさまじい圧で見せつけてくるような、広大な駐車場。そこには車いす駐車スペースも用意されていた。岸田家は狂ったように喜び、村の祭りは三日三晩続いた。
それは嘘だが、それから毎週ここを訪れるくらいには狂った。
なぜ水曜日がイオンモール神戸北デーだったかと言うと、当時、母が働いていた職場が午後休になるからだった。それまで整体のセラピストとしてバリバリ働いていた母は、歩けなくなってからは事務職のアルバイトに変わり、高校生のわたしのアルバイト代をあわせても、とても裕福とはいえない生活に変わった。それでもイオンに来ると、やりたい放題できて、めちゃくちゃ楽しかった。
さすがに毎週通ってくると、コストパフォーマンスと幸福度を突き詰めた、岸田家の黄金パターンが完成してくる。
まず、おしゃれな無印良品店をひやかし、ペットショップで行きつけの犬をニコニコと眺め、ピクニックコートへと向かう。ここで岸田家は二手にわかれ、大釜屋のたこ焼きと、丸亀製麺のとろ玉うどんを注文する。ネギをこれでもかと乗せた冷たいうどんと、アツアツのたこ焼きの組み合わせは、一度体験するとやめられない。
どうでもいい話だが、大釜屋の注文口で流れている音声の「大釜屋では生のタコを使い」を、どういうわけか岸田家は全員「大釜屋では生きたタコを使い」と聞き間違えていた。
「生きたタコをあの窯に入れるのは、それは大変やろうねえ。八本の足で踏ん張って、逃げるだろうし」
「だから新鮮で美味しいんだねえ」
このように、アホな会話を繰り広げていた。だがし夢やで買った、身体に悪そうな色の駄菓子をべろべろと食べながら。
腹が満腹になると、最後は決まって、喜久屋書店へ寄った。亡くなった父は、よく本を買ってくれる人だった。今でもわたしたちは、家族で本屋を訪れることが多い。
「これお母さんは読んだ方が良さそう。心が軽くなる言葉やって」
「最近、顔のマッサージにはまってなかった?これとかローラー付でええかも」
そう言って、互いに似合いそうな本を勧めるのだ。
本は自分で選ぶより、大切な誰かに選んでもらった方が、心に残る一冊になることが多かった。
バッテリー、銀河鉄道の夜、アヒルと鴨のコインロッカー、インターネット的……喜久屋書店で出会ってから、今も東京のわたしの本棚で、狭苦しい都会のワンルームでも消えない輝きを放っている一冊がある。
そんな第2の実家で、この本を手にとってくださるあなたがいるという奇跡に、過去を懐かしく思いながら。