家族より他人の方が話は早い
朝日新聞社さんが2022年5月5日の子どもの日に発行する『未来空想新聞』で「家族の未来」をテーマに、エッセイを書かせてもらいました。
紙面には「家族を愛する、距離を愛する」と題して1,000文字で載っていますが、みなさんすでにお察しのとおり、性懲りもなく3,000文字近く書いてしまったため、ノーカット版を公開します。
ユニークな機会に感謝するとともに、新聞をきっかけにみんなで話してみようね〜という企画なので、みなさんが考える家族の過去や未来も、どこかで語ってみてくらはい。
おかしい。
5年ぶりに顔をつきあわせた友人と話しこみ、30分後に首をかしげた。
うだつの上がらないわたしが
「生まれてはじめて手作りした味噌をウッキウキで舐めたら、なんの味もしなくて膝から崩れ落ちた」
という悩みをぶちまけると、友人は
「混ぜ加減が甘かったのは?」「引っ越しのとき、新幹線で味噌壺を運んだのがまずかったのでは?」と神妙な面持ちで、ポンッポンッと打ち返してくれた。
ありたがいのだが、なにかがおかしい。
話が早すぎるのだ。
5年だぞ、5年。
5年前のわたしは、この手で大豆から味噌を仕込めるほど甲斐性のある人間ではなかった。やしきたかじんによる伝聞を信じて東京砂漠に怯え、地元関西から一歩も引っ越すまいと豪語していた。
まずはそのへんの大前提という名のプロローグから、久方ぶりの再会に花を咲かせるべきだが、必要なかった。
我々はたった30分で、プロローグをすっ飛ばし、悩ましい味噌の本題に鋭角で突入していたのだ。
ふたを開けてみれば、なんてことは、なく。
わたしも友人も、毎日のようにTwitterやInstagramといったSNSを更新していた。
それを読みあっていれば、どん兵衛の味が変わるほど離れた東西の地にいても、昨日読んだ本の名前から、ネイルの色までわかっている。
この二年でオンライン飲み会や、リモート出社も当たり前になった。
今や、一度も会ってないが確かな友人、という存在もめずらしくない。わたしなんかは、名前も顔もわからないインターネットの方が、自分のことをあけっぴろげに語れる。
それに比べれば、
イヤというほどそばにいて、顔をつきあわせる家族の方が、よっぽどわからない。
不思議な話だ。
わたしの家族は「アホ」と「ホラ吹き」と「貧乏性」と「寡黙」が、ひとつ屋根の下に混在している。そこに優劣はなく、アホなわたしが天下をとる日もあれば、貧乏性の母が褒め称えられる日もある。
全員に共通しているのは、夜になるとみんなで天才バカボンを夢中になって見るくらいで、ほかは行動も思考もあまりに違いすぎる。
亡き父が吹き続けた、意味不明で迷惑きわまりない大ボラに、わたしは何度地団駄を踏まされたことか。
6歳ぐらいの頃。
父と風呂に入り、追い焚きすると、恒例のごとく父が叫びだす。
「ウワァァァッ!足がァ!とけるーッ!死ぬゥー!」
バチャバチャと暴れながら沈んでいき、父は湯船に溶ける。
「パパ……パパ……」
湯のなかで肩をゆさぶっても、ピクリとも動かない。湯気が天井から背中にポタリと落ちる。父は沈んだままだ。
「アアァーーーーッ!パパァーッ!」
わたしはギャン泣きした。
熱湯で父が溶けたという恐怖と、そんなわけねえだろという憤怒で、ギャン泣きした。
あわてて台所から駆けつけた母に、裏返った声で何度叱られても、父は懲りずに再演を繰り返した。
冬の季節になると
「国道にキタキツネがいた!」
帰宅するなり、ニヤニヤしながら騒ぎ立てた。神戸にいるわけがないだろ。
なぜ、ああいう意味がなく迷惑ばかりかける大ボラばかり吹くのか、本当にわからなかった。父が亡くなってしまった今、延々と語り継がれる、わが家の謎。
父と仲がよかった人に聞いてみたが「そうそう、おもしろい人でした」とわかったように笑うばかりで解せぬ。
そんなことだったら生きてる間に父を問い詰めればよかったかと思うものの、きっと教えてくれなかっただろう。
「いちいち聞くな、アホちゃうか」
父の不機嫌そうな声が聞こえそうだ。
家族って、こんなにそばにいるのに、なんでわからないんだ?
なんでわかってくれないんだ?
わたしたちは、たびたび腹が立ち、悲嘆に暮れる。
実のところ、家族だからわからないのだ。
とにもかくにも近すぎる。
何年も毎日見ているから、細かいところが目につく。鼻にもつく。
でも照れくさいし、面倒くさいし、邪魔くさいから、いちいち説明しない。
TwitterやInstagramには簡単に「朝焼けを見ながら飲む瓶コーラは最&高」と、しゃらくさい自分語りを載せられるけど、そんなもん、家族に宛てることなどない。LINEでも家族のグループチャットは、短文の連絡事項とスタンプにまみれて、意外に殺伐としている。
それに、家族だから言わなくてもわかるでしょ、という甘ったれた期待もある。
あまりにも厄介で、ガクンと膝にきそうだ。
ということは、だ。
近すぎるから、ちょっと遠くへ離れると、フッとわかる瞬間もある。
先日「父のホラって、会話が途絶えたときの気づかいだったのかも」と、急に腹落ちする事態に見舞われた。
いつのまにか、わたしは苦し紛れに、意味のないホラを吹く30歳の大人になっていた。なんというか、沈黙に耐えられず、せめて笑かそうと思うとああいうホラが口をつくことに気づいた。
父は、いきすぎたサービス精神の塊で、湯船に解けたんじゃないか、って。
時間という距離が、わからなさという確執にピントを合わせてくれた。
現代は、家族との距離のとり方を、選びやすくなってきた。
核家族化は進むし、施設や病院で生涯を閉じることもめずらしくない。けれど、もっと無数に、もっと気軽に、選べる未来であってほしい。
選んだあとも、選びなおせる未来でもあってほしい。
わたしの祖母は、認知症になった。
祖母と母とわたしの三つ巴の口喧嘩が絶えず、いつもイライラしていた。冬から祖母がグループホームで暮らしはじめるようになり、最初は母も罪悪感にまみれていたが、嘘みたいに三人とも穏やかになった。
写真で見る祖母は、ご近所さんに囲まれ、ふっくらとした笑顔をたたえていた。
離れることで、相手を慮る心の余白ってものが生まれたのだ。祖母からどんなトンチンカンなことを言われても、いまの母は笑って受け止めている。
ダウン症で寡黙だと思っていた弟が、最近、スマホを手に入れるとやたらメッセージを送ってくることに気がついた。
毎日、毎日、麦茶の写真が送られてくる。わけがわからないので適当に流していたら、一ヶ月してようやく「麦茶のパックがなくなるから買い足してくれ」という彼なりの催促だということに気がついた。
弟は黙ってすべてを受け入れているんだとばかり思っていたが、家族のだれより細かいところに気づき、しつこく欲求を口にするというのがやっとわかった。
母の入院という悲しい距離がきっかけで彼がスマホを持たなければ、たどり着くことのなかった理解だった。
時間という距離。
場所という距離。
繋がりという距離。
距離のおかげで、見えてくるものがある。
ただ、それでもやっぱり、わからないと頭を抱えるときも。
それもそうだ。
だってわたしたちはいくら血の繋がりがあろうとも、まったく違う体と心を持つ、他人なのだから。
わかりたい、でもわからない。わかったつもりが、わからなくなった。
希望と絶望を繰り返しながら、色々な距離を試す旅に、わたしたちは苦しくなる。
そのもどかしさすらも「これでいいのだ」と、手放しにできる絶妙な距離が、旅路の果てに見つかる。きっと。
家族だから愛するのではない。
愛せる距離を探ろうともがき続けて、寂しさや憎らしさを味わって、寄り添うことになっても、離れることになっても、人としてそれぞれ成長していくのが家族なのだ。
国道にいたキタキツネに会えるのを、何年もずっと楽しみにして生きてくよ。