急性胃腸炎がしんどすぎだゾ
嘔吐の表現がたくさん出てくるので、もらいゲロしがちな人はご注意ください。
「もういっそ気絶させてくれ」という苦しみなのに、ひっきりなしに訪れる吐き気で二日間ほぼ眠れず、スマホを長く操作する体力もなく、かといって静寂にも耐えられず、『クレヨンしんちゃん』の配信動画をずっとたれ流していた。Netflixで観れるシーズン1だけでは足りず、テレビ朝日の見放題パックに登録した。『クレヨンしんちゃん』がなければ、情緒のバランスが狂って、無事に朝を迎えられなかった。
人間は、痛いことや苦しいことは忘れるようにできているので、覚えているうちに一連のことを書いておく。
犬の梅吉の手術があるので、土曜日に神戸市北区の実家に帰ってきたら、弟が洗面器を抱えて吐いていた。
岸田家に生まれた者には年に一回「毒出し」という現象に見舞われる。季節の変わり目や疲れが溜まると、わたしは頭痛、母は下痢、弟は嘔吐、祖母は目眩を起こす。不調四天王。
今回も多分それだろうなと思って「あらあら、まあまあ」と言いながら、弟が吐いたときに使ったタオルなどをわたしが片づけていた。素手で。
その直後である。
弟が通っているグループホームの担当者から連絡があった。
「利用者や職員の間で、嘔吐や発熱が続いている。感染性のなにかかもしれないので注意してほしい」
なんですって。
わたしと母はあわてて手やらなんやらを洗い、弟の後部座席に放り込んで、近所で一番でかい病院を目指した。
問診と触診だけで、結果は「なんのウイルスかはわからんけど、ウイルス性の急性胃腸炎」だった。
「それって家族にもうつりますか?」
「うーん、まあ、マスクして消毒してたら大丈夫だと思うよ」
食中毒のような劇症ではなくて、ホッとした。
五時間以上、水分が取れていなかったので、弟は点滴を受けることになった。
知的障害のある弟は、健康診断で注射をしたことがあっても、点滴はない。したがって、寝たまま針をずっと刺して、袋から液体を流し込むというニュアンスがわからない。
「こわい、いたい」
丸々と太った春の毛虫のような眉をハの字に下げながら、目尻に涙を溜める弟を見て、泣きそうになった。
姉はどうしたらいいかわからず、ひたすら弟の手を握っていた。
ただの水分と吐き気止めの点滴であるのに、このベッドだけ「今夜が山だ」感が出ているので、すれ違う患者さんや看護師さんが二度見していく。
そのうち、弟が寝落ちした。
わたしと弟は、顔から性格から何から何まで似ていないのだが、この日はじめて手が丸くてムッチョムチョしているところがそっくりだと気づいた。関節が見当たらない。
点滴のあと、弟はみるみるうちに回復した。
お腹が減ったというので、その晩はとろろうどんをたいらげたくらいだ。これでこの物語はハッピーエンドかと思えた。月明かりふんわり落ちてくる夜は。
夜、わたしが脈絡もなく吐いた。
「なんか胃のあたりがムカムカするな、うどん食べすぎたかな」
と思いはじめた2分後には、吐いた。マーライオンのような放物線を描いて。ここがシンガポールであれば聞こえてくるのは観光客の「ワァ!」であるが、岸田家なので家族の「ワァ〜〜〜〜〜〜ッッッ!?」だった。
あとから調べたら、急性胃腸炎を起こすウイルスは非常に強力なので、アルコール消毒では太刀打ちできず、塩素系消毒剤で消毒しなければならないそうだ。
それからはもう、吐いて吐いて、吐きまくった。
ずっと気持ち悪くて「ウーッ、ウーッ」と唸り声が自然に出る。15分に1度、気持ち悪さがピークに達して、吐いてしまう。
最初は吐くのが怖くて怖くて泣きそうだったが、3時間も吐きっぱなしでいると、さすがに体が吐き方がわかってきた。戦いの中で成長していく。
一度の嘔吐で、4回〜5回「ブオエ〜ッ」となるが、2回目と3回目が一番苦しい。胃の中のものがちょうど逆流してくる途中なので、息はできんわ、目眩はするわ、手はしびれるわ。
最後の1回を終えると、嘘みたいに楽になる。数分だけ。その数分が天国のような心地である。高熱で解熱剤を飲んで、嘘みたいに効いたあとの無敵感にも似ている。
この無敵タイムの間に、スマホでツイッターを見たり、薄めたポカリ(本当は経口補水液がいい)を飲んだり、なんなら調子に乗ってブドウなんかを食べたりする。
そして15分後、また地獄を見る。アホである。
片時もわたしのそばを離れない梅吉が、わたしが吐くたびにビクゥッと全身を震わせ、うなぎ犬のように体をうねらせてリビングのドアから出ていき、遠くからこちらを見ていた。犬ですら引いていく吐きっぷり。
胃腸炎は、胃腸の壁がウイルスで傷つけられることで発症する。抗生剤が効かないので、胃の細胞が生まれ変わるまで絶食で耐えるしかない。
細胞よ…はよ生まれ変われ……わたしの胃の細胞たちよ……。
祈りながら、氷枕を毛布で包んだ謎の物体を我が子のように抱いていた。わけがわからないが、なにかを抱いてないとおかしくなりそうだった。
「お茶、ここに置いとくからね。あと粉で作る経口補水液置いといたから、これも飲んでね」
車いすの乗ったまま、献身的に介護をしてくれた母だけが救いであった。
その母も
「ブオエ〜ッ」
「ワァ〜〜〜〜〜〜ッッッ!?」
吐いた。深夜1時のことであった。
弟もいつの間にか、再び吐いていた。
リビングから、寝室から、ひっきりなしに誰かが吐く声が聞こえる。その間を縫うように、わたしが流しているクレヨンしんちゃんたちの声が聞える。天国と地獄。
二人とも、自力で水分がとれなくなった。
経口補水液を飲んでも、それに胃液を上乗せした倍の液体が、胃から出ていく。目眩やしびれがひどくなっていく。
母は今年、虫歯の治療痕からウイルスが心臓にいき、感染性心内膜炎を起こして死にかけたので、ウイルス性の病気になったら念のためかかりつけのでかい病院へ来なさいと言われていた。
しかし、一歩も動けない。
歩けない母を連れて、ボロボロのわたしと弟がタクシーまで行けるわけがない。
「救急安心センター」というところにまず電話をかけて相談したら、動けないなら救急車を呼んでいいとのことだったので、お願いすることにした。「ちょうど一台、搬送の帰りで近くにいて、すぐ行けますので」という一言に、少し救われた。
朝5時。
救急隊員さんたちが三人、母の部屋に入ってきた。血圧などをチェックしながら
「同行者はどなたですか?」
と聞かれたので
「あ……わたしです……」
と答えた。この時点でわたしは、ビニール袋をぐしゃぐしゃに握りしめ、部屋の隅で倒れこみ、挨拶のようにえづくという瀕死っぷりであった。
救急隊員さんがドン引きした。
「いや、他のご家族は……」
「弟は知的障害があって、祖母は認知症が始まっていて」
「他にご家族は?」
「いません……ブオエェェ〜ッ!」
「え、ええ〜……」
救急隊員さんが再びドン引きした。いません。ごめんなさい。
下半身麻痺で服薬もかなりある母を意識朦朧のまま一人で乗せるのもリスクが高く「とりあえず乗ってください」とわたしは救急車に乗せてもらった。
しかし、乗せてもらったあと、今度はわたしがわかりやすく悪化した。
救急車の助手席で、移送先の病院に電話をかけていた隊員さんが
「搬送者は52歳女性、症状は嘔吐、血圧が……ああ〜ッ!娘さんも!娘さんもこれ救急かもですね、はい、娘さんも」
と急な方向転換を見せてくださった。
「症状も一致しているし、二人同時に受け入れてくれるそうなので、同時搬送します」
ほぼ目の前が真っ白になっていたが、とにかくありがたい申し出だった。
しかしわたしのバイタルをチェックしていると、わたしに微熱があることがわかった。隊員さんがあわてて病院に電話をかけなおし、なにかを話している。
「あのう、娘さん」
「はい」
「申し訳ないのですが、降りていただくことになりそうです」
「えっ!?」
「コロナの影響で、発熱している患者さんはこの病院では受け入れられないそうで」
ここで降りてくださいなんてそんな、そんな、タクシーみたいなこと。まあ歩ける距離だけど。いや本当に歩くの!?やれんの!?
わたしの絶望の表情を見て察した隊員さんがもう一度交渉してくれ、受け入れてもらえた。一寸先は徒歩であった。
母のかかりつけである大きな病院の救急センターに、二人で担ぎ込まれた。
血液検査と点滴のため、左腕に針を刺してもらう。まずは母から。度重なる手術と入院で点滴慣れしてるせいか、すんなり終わる。
「はい、今のでわかった?娘さんの方はきみにやってもらうから」
母に点滴をした、一番年上の先生が、若い先生の肩をポンと叩いた。
うん?
「じゃあ点滴しますね」
メガネをかけた若いその人はぶるぶる震える手で、何度もわたしの腕にチューブを巻いたり、肌をなでたり、叩いたりする。
うん?
針を取り出すまで、5分くらいかかった。めっちゃかかった。ようやく狙いを定めて、アルコール綿で肌を拭いたころ、さっきの年上の先生が戻ってくる。
「血管わかった?」
「あ、はい、なんとか……」
「狙いは?」
「ここです」
「うーん、まあ、悪くないと思うよ」
「はい」
「それでどうなるか、やってみ?」
うん??????????
小学校のちょっと風変わりだけど自由度のある実験が面白くて人気がある理科の先生を思い出したそのとき、腕に針が刺さった。
最初、チクッとした。
ああこんなもんかと思った時、グッ!と押し込まれて激痛。グニュッとずれて激痛。
「あいたあッ!」
叫んでしまった。注射で経験したことのない痛みだった。ひどい脱水症状のときに使われる点滴の針は特に太い。
「あー……入ってないね。じゃあ抜いてみ?」
指示は無情。「やってみ?」からの「抜いてみ?」である。ちょっとかっこいい部活の先輩みたいだ。ここが病院でなければ恋してしまう。
しかし二回目も結局、入らなかった。痛みだけがそこにある。
「うーん、じゃあもう点滴しなくていっか。娘さんはそこまでしんどそうじゃないし」
まずい。「あいたあッ!」と叫んだのが裏目に出たのか。元気な患者だとみなされてしまった。いや実際、元気な患者なのかもしれんが。
「えっ……!でも、5時間くらい自力で水分とれてなくて」
「あ、そうなんだ。点滴した方がいいね。うーん、じゃあ他に点滴やりたい人いる?」
そんな学級委員みたいな挙手制なの?
わたしはまな板の上の鯉である。ただ不幸なことに、鯉よりもほんの少しばかり知能が高い。わかってしまう。会話の不穏さがわかってしまう。
「そこの看護師さん、やってみよっか」
看護師さんに白羽の矢が立った。彼女も若かった。さっきの若い先生も混じって、四人ほどがわたしの腕を取り囲み、やんややんやと言い合ったのち、なんとか点滴が入った。痛かった。
「コツつかめた?ご高齢の方になるともっと血管が固くなって入りづらいから、この人はまだ入りやすい方だからね」
「はいっ!」
いくぞ全国大会、のような活気があった。いってくれ、全国大会。
横を見ると、隣のベッドで顔面蒼白の母が気絶していた。この吐き気のなかでは気絶した方が楽なのを知っているので、いいなあと思った。
さっきの若い先生は研修医だった。
「若輩者で、痛い思いをさせてすみません」と、わざわざ謝りに来てくれた。こちらこそ、救急なのに痛がってすみません。医療機関や医療従事者の方々が大変なこの状況で、受け入れてもらえたことだけでもありがたいので、せめて彼の練習台の一端になれたことを嬉しく思う。
血液検査の結果は、やはり強いウイルス性の急性胃腸炎だった。
「お母さんは特に脱水症状がひどいし、心臓のこともあるから入院できた方が本当はいいけど……ごめんなさいね、この状況だからベッドが足りなくて」
回復も悪化もしなかったが、一時間半の点滴のあと、わたしたちは自宅に帰ることになった。状況はよくわかっている。
不安ではあるけども、今すぐ命どうこうに関わることではないとわかっただけで、動く手段がない母とわたしが点滴を受けられただけで、本当にありがたかった。
わたしは母を乗せた車いすを松葉杖代わりにして、よれよれとタクシー乗り場まで歩いていった。忙しいはずの先生たちが、見えなくなるまで「お大事に……」と何度も言って、見送ってくれた。みなさんもどうか、どうかお大事に。
家に帰り、病院でもらった薬を飲みながら丸一日寝ると、わたしは回復した。固形物はまだ食べられないけど、吐き気はない。母もたぶん、数時間遅れて回復するはずである。
あとから知ったことだが、弟が発症してすぐ、人知れずばあちゃんも吐いていた。知らぬ間に一家全滅していた。
ただ物忘れがひどいので、吐いたこともしんどいことも忘れていたらしく、吐くペースも3時間に1回とかで忍者のようにトイレで吐いていて、誰も気づかなかった。そして焼きそばとかスイカとか普通に食って、片っ端から飲み物をがぶ飲みし、胃腸炎になったとも知らず勝手に治っていた。おそろしい。
もちろんそれは運が良かっただけで、常人はそんなことしたら本当に危ないので、いまは元気でも、経口補水液や液体ゼリーは常備しておきましょう。みなさんも、お大事に。コロナの影に隠れてるけど、胃腸炎流行ってるらしいです。
何度でも、何度でも言いますが、今回助けてくださった救急隊員の皆さん、医師や看護師の皆さん、ありがとうございました。そして心配をかけてしまった読者の皆さん、すみませんでした。強く健やかに生きる。