私のお弁当箱は、ミャンマーの流行最先端
「奈美ちゃんのお母さんって、綺麗だし、オシャレだよね」
小さな頃から頻繁にいただく、褒め言葉です。
確かに母は同級生の保護者たちの中では若い方かもしれないし、服装も垢抜けていました。ですが、家が近所でもない友だちからも言われるので不思議でした。
母を見る機会なんて、年に一度の授業参観くらいしかないからです。
授業参観というシチュエーションで子どもたちによる「オシャレだよね」は褒め言葉にあって褒め言葉にあらず、「お前のカーチャン超ウケる」くらいの意味と捉えていたのでぞっとしていましたが、しばらくして根拠がわかりました。
私の弟である、良太の服がとてもオシャレなのです。
私が「チェケラッチョ!」の井上真央さんに憧れてアロハシャツに身を包み、プチ小錦と呼ばれていた時も。裏原系ファッションに陶酔して星柄のパーカーを着て、父から「お前はオバQで言うところの、アメリカ帰りのドロンパか」というおよそ同世代には通じないであろう指摘を受けていた時も。良太は一貫して、オシャレなアメリカンカジュアルの服を着ていました。
意味不明な英語プリントや、十字架が大胆に配置された服を着たがる同年代の中で、確実に良太は輝いていました。つまり良太のオシャレな服を選んでいる母は、すなわちオシャレということなのです。
後から気づいたことですが、良太のズボンは質の良いジーンズでした。ウエストはホックとジッパーで留める、ごく普通のタイプです。
しかし良太はダウン症の特徴で低緊張があり、指先を使う細かい作業は不得意です。本当ならウエストはゴムのタイプの方が履きやすいのですが、それでは見た目がイマイチです。
母と良太が一生懸命、ホックとジッパーを止める練習をしていたのは、そのためだったのです。
あの時の二人の努力があったからこそ、良太はしっかりとジーンズに足を通して、オシャレな服を着ることができています。人は見た目が全てとは言いませんが、確実に周囲の友だちは「オシャレじゃない良太」よりも「オシャレな良太」の方が話しかけやすかったことでしょう。
おかげで私は、障害のある良太に後ろめたい思いをすることもなく、学校では鼻高々でした。オシャレにこだわってくれた母のおかげで得た地位です。人のふんどしならぬ、弟のジーンズで相撲を取っていたわけです。
そういうこともあってか私は、オシャレだと母が言うものは、頑なに信じ続けてきました。
事件が起こったのは、中学校に入学した当時のことです。
「このお弁当箱、オシャレだから買ったわ。ステンレスだし」
なんだかよくわからない言葉とともに、母がドンッと私の目の前に置いたのは銀色の丸い二段重ねのお弁当箱でした。
ごつい金属のフレームで固定し、ランタンのようにして持ち運ぶという代物です。
チャイムが鳴って、友だち同士できゃあきゃあ言いながら机を合わせて、ランチョンマットを敷いて。各々カラフルなキャラクターもののお弁当箱や、ペンケースと同じくらい華奢なお弁当箱を取り出す中、私はスクールバッグから銀色のランタンを引きずり出すわけです。
薄々、気づいてたんです。
みんなの視線と沈黙から「あっ、これ、なんか違うかも」と。
まず音が違う。皆のお弁当箱はカチャカチャ、私のお弁当箱はガッシャンガッシャン、バチン、ゴトン。
それでも、私は母を信じていました。だって母のオシャレは、絶対なのだから。
ついにある日、「ねえ、本当にこのお弁当箱、オシャレなんかな」と恐る恐る聞いた時も母は「当たり前やん。みんながまだ持ってへんってことは、これから流行るんやで」と意気揚々と答えてくれました。
そしてお弁当箱は一向に流行りを見せる気配はなく、私は中学校と高校を卒業しました。
お弁当箱を再び目にしたのは、昨年、母とミャンマーに出張した時でした。
街角を往来する人々の手には、あのお弁当箱。日本を通り越してミャンマーで流行したのかと感動して現地の方に聞いたところ「アレ、ミャンマー ノ オベントウバコ。トニカク ジョウブ。アブラ スゴク ハイル」とのこと。
「油、すごく、入る……?」
「ウン、アブラ、スゴクハイル」
私が六年間を共に過ごしたのはとにかく丈夫で油がすごく入る、ミャンマーのお弁当箱でした。
オシャレについては未だに、葛藤しています。