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[原作]あの子を連れて旅に出たら、わからないことをわかりたくなった話

中外製薬さん、ワンメディアさんより依頼を受け、NMOSD(視神経脊髄炎スペクトラム障害)の啓発を目的とした小説を書かせてもらいました。本作は監督・柳明奈さん、主演・堀田真由さんでショートフィルム化されました。

書かせてもらうことになった経緯

予告編(本編は最下部より)



木箱が届いたのは、よりにもよって大切な計画を控えた、土曜の朝だった。


宅配表に示された送り主は「日下部 昌夫」。お母さんのお兄さんで、わたしの叔父。二年前まで、わたしたちの家があるのと同じ東京の大手商社で働いていたが、正月や盆で会うたびに

「いいか美月。中間管理職にだけはなるんじゃないぞ、福沢諭吉も天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずって言ってんだろ。ありゃあ中間管理職にだけはなるんじゃないって話だからな」と、疲れきった顔で、まだ大学生のわたしに言い聞かせた。

そんな伯父さんはある日、上司を説得するためだけの無駄な数字を並べに並べた資料を徹夜で作り、息も絶え絶えに出社すると部下達が自分の悪口で盛り上がっているのを見て、机を和太鼓のようにドカドカ叩きながら叫び出し、翌日に退職を申し出たらしい。今は千葉県の山奥で、美味しい瓜のようななにかを育てる農家になり、心底楽しげに暮している。

そういうわけで、今回も瓜のようななにかのお裾分けだろう、とわたしは油断していた。両手でやっと抱えられるくらい大きな木箱のふたを閉じているガムテープを、べり、べり、と剥がす。

最初に目についた中身は、大量のおがくずだった。とっさに、小学生のころ、教室で飼っていたハムスターの飼育ケースを思い出すが、おがくずに埋もれているのはハムスターではなかった。

「どうしたの、美月」

リビングにいたはずのお母さんが、様子を見にやってくる。返事ができない。おがくずの中を、なにか黒くて、大きくて、ぬらぬらしたものが、這っていた。

「……あ、すっぽんだわ、これ」

わたしが正体に気づくより早く、お母さんが冷静に言った。

悲鳴をあげた。それはもう、盛大にあげた。豚のような鼻と、絶妙に離れた目を持つ、平べったい生き物が「じゃかましいわ」とでも言いたげに、シャーッと口を開けた。

すっぽんなのか、これが。

( ´(oo)ˋ )


「お母さんが中間管理職になったから、伯父さん怒ってるんじゃない?」

勤務先の進学塾で総務課長代理に昇進したお母さんへ、警鐘を鳴らす執念の品かと思った。

「違うわ、たぶん」

お母さんは、木箱に貼りつけてあった一筆箋を手にとる。

『郁子へ これを食べて元気になりなさい』

一筆箋には、伯父さんの字でそう書かれていた。

郁子は、お母さんの名前。8月23日生まれの48歳。乙女座のA型だ。乙女座は几帳面かつ真面目な性格で、人が集まれば集まるほど、全員が心地よく過ごせるように、細やかな気づかいを発揮すると、ワイドショーで占い師が言っていた。

一昨年の正月に昌夫伯父さんが日本酒でベロンベロンになりながら、

「だけどなァ、もう数時間早く生まれてきたら、郁子は獅子座だったんだ。獅子座はこれと決めたら絶対曲げずに、他人の言うことなんか聞きやしねえ。郁子のやつは片足を獅子座に突っ込んでっから、真面目で気が強いってのなんの。それに比べて俺はなあ、石橋を叩いて叩いて叩き壊して立ちすくんじまう水瓶座よ。水瓶座の俺は中間管理職に向いてねえんだ、親父もそうだった」

と嘆いていたたかが星座占いをそうやっていちいち間に受けるのがよくないんじゃないかと思ったけど、伯父さんが気の毒で黙っていた。

お母さんが真面目で気が強いというのはその通りだ。おまけに美人で仕事もできる。わたしが二歳のころに亡くなってしまったお父さんは、本当は、わたしのお父さんになれるはずがないほど短い余命宣告を受けていた。お母さんと結婚してから、完ぺきに栄養バランスのとれた食卓、ゆっくり浸かれる温度のお風呂、笑いと癒やしの絶えない休日が滞りなく用意され、なによりお母さんの海ほどに深い愛とお節介が奇跡を起こしたのか、お父さんは宣告より十年も長生きして、お医者さんを驚かせた。その結果、わたしが生まれた。未だに親戚が集まるたび「ありゃあ、見事なもんだったよ」と感嘆される、なんともすごい話だ。

「ほらね。お見舞いのつもりなのよ、これ」

ごそごそと不穏な音のする木箱を見下ろしながら、お母さんがため息をついた。

「すっぽんで治るとでも思ってんのかしら」

考えたくはないが、やはり、このすっぽんは食べるために送られてきたらしい。いくら精がつくと言ったって、ありがた迷惑だ。伯父さんは石橋を叩いて叩いて壊すタイプのくせに、なんでこういう迷惑な方向にだけ思い切りがいいのか。はっ、水瓶座だからか。水、と、亀だからか。そんな馬鹿な。

「どうしようかしら」

「どうもしなくていいよ!わたし、今から陽一とデートだし」

陽一は、わたしの彼氏だ。二人ともが、授業もバイトも休みがぴったり重なるこの日を、ずっと待ちわびていたのだ。飛び込みのすっぽんなんかに潰されてはかなわない。

しかも、表向きはデートだけど、もっとずっと大切な計画がある。

「お母さんもさ、一緒に行かない?」

「はあ?」

それは、お母さんを一緒に連れ出すこと。

「新しくできたショッピングモールなんだけど、お母さんの好きなお店も入ってるんだ」

「好きなお店……って、ひじき食べ放題本舗?」

「なにそれ、聞いたことも見たこともないよ……。そうじゃなくて、これ!このお店!」

いつでも勢いで切り出せるように、スマホでブックマークしておいたページをお母さんに突きつける。ショッピングモールのテナントである、イタリア製のファッションブランドだった。ここのパンプスとパンツは美脚に見える、とお母さんが好んでいた。

お母さんはスマホに顔をぎりぎりまで近づけて、ぎゅうっと目を細める。あらかじめ文字は1.5倍に拡大していたけど、今日は、それでも見えづらい日みたいだ。

「ううん、大丈夫」

大丈夫ということはもしかしてと一瞬期待したが、行かないという意味だった。

「ずっと家にいてもつまんないでしょ」

「わたしは忙しいのよ」

忙しいって、何に。喉の奥まで出かかった。休職しているお母さんが、趣味や習い事に興じるところなんて見たことがない。家事だってわざわざ早起きして、わたしがあらかた終えたばかりだ。

「それに、ちゃんと出かけてるわよ。病院でしょ、スーパーでしょ」

「そんなんじゃなくってさ、服買いに行ったりとか」

「服?」

わたしは、お母さんが着ている服に視線を落とす。外でも家でも、シンプルだけど洗練されたオシャレを欠かさなかったはずのお母さんが、ダサすぎるアップリケ付きのトレーナーに身を包んでいた。やたらと太った出っ歯の猫がダブルピースで「YATTANE!」と叫んでいるアップリケ。おばあちゃんの仕送りに入っていて「こんなの絶対に着るもんか」って、怒ってタンスにしまい込んでいたやつじゃないか。

これを着るということは、いよいよ、良くない。

「わたしに気を使わなくていいから、二人でデートしてきなさい」

なにがよくないって、意気消沈していることに、本人が気づいていない。もどかしくまって、わたしはつい、本音を出してしまう。

「お医者さんも言ってたじゃん。買い物でも映画でも、楽しめることをやっていきましょうって」

「ありがとう。でも、大丈夫」

お母さんは最初から、わたしがなんのために誘っているのかわかっていた。わかった上で、はぐらかしている。伯父さんに対してもそうだ。この一年は正月にも盆にもお母さんが顔を出さないもんだから、しびれを切らして我が家に送られてきたのが、このすっぽんなのだ。

「すっぽんだけ置いていくわけにもいかないでしょ」

憎きすっぽんめ、計画をぶち壊してくれちゃって。

「食べろって書いてんだから、食べるしかないわね」

なんですって。

「昔、母が近所からもらってたまにさばいてたから、やり方はわかるのよ。でも……」

お母さんが、流しの下から包丁を一本取り出し、そっと握る。手がしびれてうまく力がはいっていないのか、切っ先がふるえている。それに今日は、目も見えづらい日だ。これじゃあ、動いているすっぽんをさばけるわけがない。

「わたしの言うとおりに頼むわね」

なんですって。


( ´(oo)ˋ )



お母さんの病気の前触れは、目のかすみと、手足の軽いしびれだった。

疲れだろうと甘く見て、仕事を休むこともしなかったらあっという間に悪化し、やっと入院する頃には、目は白い靄がかかったようにほとんど見えず、しびれと痛みで歩くこともままならなかった。

三回も転院した後「非常にめずらしい病気ですが」と前置きとともに、お医者さんから告げられたのは「視神経脊髄炎スペクトラム障害(NMOSD)」という難病だった。

体を外敵から守る免疫の仕組みに異常が起こり、自分自身の脳や脊髄、視神経の細胞を攻撃しまう病気らしい。

幸いにも、治療が始まれば重い急性症状は落ち着き、目のかすみや、手足のしびれはまだ残っていたが、日常生活は送れるということで一ヶ月後にお母さんは退院した。

NMOSDを完治させる治療法は、現代の医療にはない。できる限りの再発の予防と、残った症状をやわらげる対症療法を、お母さんは続けている。

「これからは病気と上手に付き合っていくことが大切になります。症状が辛いときもあるかもしれませんが、調子が良い日は仕事や趣味などの日常生活も楽しんでください」

退院する日、医師が言った。

人付き合いが上手でしっかり者のお母さんにとって、見えも聞こえもしない自分の病気と付き合うのは、相当に難しいことだったらしい。

講師よりも勤務時間が短い総務部として仕事に復帰したけど、それからすぐ体調不良を理由に再び休職を申し入れ、お母さんは人が変わってしまったように引きこもりがちになっった。

わたしはそんなお母さんを見ているのがつらい。どうにかしたくて、あれこれ考えてお母さんに提案してみるけど、なにひとつ乗り気になってくれないのもつらい。

( ´(oo)ˋ )


すっぽんごときでお母さんが元気になるなら、苦労はいらない。実際は元気になるどころか、地獄の有様だった。

どのくらい地獄だったかというと、玄関まで迎えにきてくれた陽一が、外まで響き渡るわたしの悲鳴を聞いて、強盗が家を占拠していると勘違いし、顔面蒼白で飛び込んできた。

彼は一目散にキッチンに駆けつけると、号泣しながら包丁を握ってへたり込むわたしと、立ちすくむお母さんを交互に見て、「話せばわかる!話せば!」と両手を広げて絶叫した。これも勘違いだ。

実際は「すっぽんの甲羅の後ろを持って、ぐるっと逆さにして、伸びた首を切るのよ!」というお母さんの指示に、わたしが必死で抵抗しているところだった。

事情を説明すると、陽一は「すぐに戻ってくるから」と言って、一度家を出ていった。

言葉のとおりすぐに戻ってきた彼は、

「あの、僕、美月ちゃんとお付き合いさせてもらってます、千代田陽一です。これよかったら……噛まれるといけないんで」

ガサガサと音を立て、100円ショップのビニール袋から軍手を取り出す。滑り止めとゴムの縁の色が、赤、青、黄で、チューリップみたい。

ひとつ歳上の陽一とは、わたしが大学に入学してすぐ、フットサルサークルの新歓で知り合った。わたしは陽一のことを先輩だと思って接し、履修科目のアドバイスまでしてもらっていたけど、実際のところ陽一は浪人して入学した新入生だった。一ヶ月後「かっこつけちゃったから、言い出せなくて……」と真っ赤な顔で半泣きと平謝りをし、握りしめて温くなったオレンジジュースの缶をお詫びだと差し出された。履修科目は自力であちこち回って必死にリサーチしたらしい。その甲斐あってわたしは単位をひとつも落とすことなく春学期を終え、同時に、陽一と付き合うことになったのだった。

陽一にもお母さんの病気のことは話していた。お母さんが治療で入院したときもお見舞いに来たがってくれ、わたしもなんとかタイミングを見つけて会わせたかったけど、お母さんからはやんわり断られ続けた。

理由はなんとなく見当がつく。お母さんは二度か三度目に断るとき「治らない病気の家族と会わされても、大学生には重いでしょ」とこぼしたから。

陽一と会わせるという計画だけは叶ったのを良しとして、三人で出かけるのは諦めるべきか。いやまだ見込みはある。今この場ですぐに、すっぽんを料理してしまえば。

「陽一って、すっぽんさばける?」

「えっ?ど、どうかなあ。考えたことないよ、ごめん!」

彼に非はない。すっぽんをさばく未来にそなえている大学生が、この世にどれだけいるだろうか。

「やってみる」

木箱の中にしまい込まれているすっぽんを取り出そうと、陽一が軍手をしっかりつけた手でフタを少しずらして開ける。「あーっ、おまえ、そんな……そんな目で見るなよう……あーっ、鼻、鼻がちょっとかわいい!かわいいなおまえ!」と、陽一はしばらく悶たえたあと、黙ってフタを閉じた。

「無理ですね、僕には!」

気持ちがいいほど、潔かった。

三人で話し合いの末、今から伯父さんのもとへ馳せ参じ、お詫びとともに返上することになってしまった。さらば、ショッピングモール。

( ´(oo)ˋ )



「……美月、あんたもっと動きやすい服と靴にしたら」

「いいの、これで」

わたしはまだ、すっぽんなんかに念願のデート気分を邪魔される悪行を許していない。ささっと返しに行って、帰りはせめてどこか洒落たレストランにでも寄りたい。その固い意思の現れが、買ったばかりのワンピースと、お母さんのお下がりとしてもらったオープントゥのパンプスだ。これは譲れない、絶対にだ。

「電車とバスで二時間半よ。座れなかったらどうすんの?」

「あっ、じゃあ僕が運転しましょうか?」

すっぽんの入った木箱を抱えた陽一が、待ってましたと名乗りをあげる。

「陽一、車で来たの?」

「いや、お母さんの車をお借りして」

お母さんの車は、青のミニクーパー。

懐かしい車の面影が脳裏をよぎる。どうして彼が知っているのかと驚いたが、そういえば入学したての時、お母さんが何度か車で校門前まで送ってくれ、近くで見ていた陽一や友だちが、かっこいいと褒めてくれたんだった。お母さんのことも、車のことも。

「安心してください!僕、免許取ってすぐに実家の軽トラを乗り回して練習したんで。うちの前の路地と駐車場、うなぎの寝床ぐらい細いんですけど、50mバックし続けて……」

陽一が喋れば喋るほど、お母さんの口の端が引きつる。わたしが彼を止めるより早く。

「売っちゃったのよ、あれ」

陽一は、ぽかんとする。

「もうないの」

病気になったお母さんが、失ってしまった日常はいくつかある。

車の運転とか、休日のランニングとか、卵でくるっと包む感じの料理とか。わたしはどれも最初からできやしないけど、当り前にできていたことができなくなるというのは、わたしには想像できないほど辛いことのはずだ。青のミニクーパーが中古車業者に引き取られていく時、書類にサインしたお母さんの横顔を、わたしは思い出していた。

状況を察して、あわてて謝ろうとする陽一を「大丈夫」とお母さんが遮る。

「行きましょう」

( ´(oo)ˋ )



東京から電車に揺られ、二時間後。本当ならバスに乗っているはずのわたしたちは、なぜか、田舎道をひたすら歩き続けていた。

理由は単純で、電車の乗り継ぎを間違い、予定よりも遅い時間に駅へ到着したら、一時間に一本しかないバスが走り去った後だった。寂れた駅前にあるのは無人の自転車置場と自販機コーナーだけで、タクシーは見当たらない。

「伯父さん、迎えに来てくれないかな?」

「さっき連絡あったけど、農協の用事があるんだって」

伯父さんの家までは歩いて二十分はかかる。大人しく次のバスを待とうと、貧相なロータリーのベンチに並んで座った。陽一はすっぽんの木箱を、そっと足元に置く。

「あの」

電車では、三人で自然な会話がほとんどできなかった。二人がけの席でお母さんは後ろに座っていたというのもあるけど、意図的にわたしたちを遠慮しているのは明らかだ。陽一は、お母さんと喋るタイミングを見計らっていた。

「NML……N、M……ぐっ」

噛んだと思った瞬間に、陽一が自分で自分の頬をバチンとはたいた。

「NMOSDっていうご病気でしたよね、お母さん」

「あら、知ってるのね」

「美月ちゃんから聞いて、その、すごく大変だって」

お母さんと会う前、病気について知らないことで失礼があったらダメだからと、陽一がわたしにたずねてくれたのだ。

「でも、お元気そうでよかったです」

陽一がホッとする。わたしも同じことを思った。お母さんが病気になってから、電車でこんなに遠出をしたのは初めてだけど、無事にここまで来れたのだから。

「お元気そうに見える?」

お母さんの表情は、わかりやすく曇る。明らかに棘を含んだ言い方に、陽一は戸惑う。

「ちょ、ちょっと。お母さん」

お母さんは視線をそらして、ベンチの座面に手を置き、立ち上がる。

「こんなとこで、一時間も待ってらんないわね」

「歩くの?三十分はかかるよ」

「お元気そうだから、大丈夫」

また、棘だ。

お母さんに聞こえないよう、わたしはささやく。

「ごめん、ごめんね、陽一。」

「いや、俺こそ……なんかまずいこと言っちゃったかな」

「言ってないよ」

「でも」

「元気そうに見えるもん」

「じゃあ、本当は辛いんだ……?」

「辛そうって言っても、機嫌が悪くなるんだよ」

辛そうなお母さんを見かねたわたしが「今日は顔色が悪いから寝ておきなよ」「大変そうだからわたしが家事するよ」と言うと、一度目は「大丈夫」とお母さんが笑う。食い下がると二度目からは「大丈夫だから」と不機嫌になる。

つらいのはわかるけど、こんな時まで自分勝手すぎやしないか。心配する気持ちと、腹が立つ気持ちが、お腹のあたりでまぜこぜになる。

( ´(oo)ˋ )



五分、十分と歩くうちに、歩道はどんどん細くなり、車道を挟んで向こう側に見える民家と民家の間はどんどん離れていった。そのすき間をくまなく埋めるように、広大な田んぼが広がる。まだ青々とした稲の先が風に揺れている。

「あ、神社だ」

遠くに見える森に半分埋もれるようにして、赤い鳥居が建っていた。

「お守りとか買って行きます?」

「いいって、お母さんにわざわざ話振らなくても」

すかさず陽一の腕を後ろから引っ張り、耳打ちする。

「そんなつもりじゃ……」

「いいわよねえ、神頼みできる人って。わたしはもう飽きちゃった」

お母さんがうなずきながら、陽一を見た。

「ほら、ね」

さっきからお母さんはずっと機嫌が悪い。返事してくれたのはこれ幸いと、陽一はめげずに会話を続けた。

「こいつ、食べられなくてよかったってホッとしてるかも」

「すっぽんが?」

「うん。なんとなく動きが活発になってるような……あっ、ほら!蹴った!また蹴った!」

陽一は木箱に耳をくっつけるようにしながら、ご満悦の表情だ。赤ちゃんじゃないんだから。

「喜んでるわけないでしょ、どうせ兄さんのところで食べられちゃうんだから」

「あ……そっか」

「わかったふりされて、すっぽんも気の毒だわ」

「お母さん、いい加減にしてよ!」

もう我慢できない。先を歩いていたお母さんの隣りを追い越して、正面に立ちふさがる。

「さっきから陽一が気をつかって話してくれてるの、わかんない?」

陽一が、ぶんぶんと首を横に振っているが、わたしは止めない。

「お母さんを心配してるだけなのに、そんな言い方ってないよ!」

「心配してなんて言ってない」

お母さんの長い前髪が、汗で額と頬のあたりに貼り付いている。

「大変な病気なんだから、みんな心配するに決まってんじゃん」

「大丈夫だってば」

「大丈夫じゃないって。家から全然出ないし、服はどんどんダサくなってくし、卵焼きだって……」

卵焼き、と口にした瞬間、お母さんの顔がこわばった。沈黙が続く。

「卵焼きかあ!俺、甘いのよりしょっぱいのが好きだな。すっぽんも卵焼きって食うのかな」

無理やり助け舟を出そうとする陽一の明るい声だけが、沈黙の上を無意味に滑っていく。

「もういいよ」

お母さんを追い越して歩く。お母さんからお下がりでもらった、憧れだったオープントゥのパンプスで。

「意味ないもん」

意味がない。わたしの心配も、伯父さんの親切も、陽一の気遣いも、お母さんの強がりも、なにもかも、意味がない。しんどくて、苦しくて、悲しいだけ。


( ´(oo)ˋ )



お母さんがひとりで卵焼きを作り続けていることに、ずっと前から気づいていた。

その卵焼きは、決してわたしの前には並べられない。代わりに、あらかじめ作られていた身代わりのゆで卵が並ぶ。

ボウルに卵を割り入れる。白身を切るように混ぜ、泡ぶくが立たないように溶きほぐす。そこに、塩と砂糖と水を加える。砂糖は、二度見したくなる量を攻める。

はたから眺めているとギョッとするが、これがちょうどよく、ほろっと思わず笑顔になってしまう甘さになるのだとお母さんは言っていた。卵焼きで思い出されるのは、やっぱりお弁当。はじめて幼稚園に持っていったお弁当、運動会でへとへとになって食べたお弁当、大学受験で頭がカラカラになったときのお弁当、どのお弁当でも、お母さんの卵焼きの甘さに助けられた。

お母さんがNMOSDになってから、卵焼きは食卓から忽然と姿を消した。しびれる手では、うまくフライパンや箸を操れないからだ。

わたしが起きてくる前に、お母さんはぐちゃぐちゃに失敗した卵焼きを胃に詰め込んで、隠してしまう。食べきれなかった切れ端の乗った皿を、流しで一度見かけたときから、わたしは気づいていた。見た目は悪くても、味は変わらないから、それでいいよと何度も言おうとした。だけど、お母さんの泣きそうな顔を見ると、言えなかった。

せめて一緒に練習をしたくて、料理を手伝うとお母さんに申し出たことがある。

「お洗濯もお風呂掃除も、美月に任せっきりだから……料理くらいわたしがやらないと」

少しでも足腰を曲げて負担のかかる家事はわたしの担当だった。

「いいよ、お母さんは病気なんだから」

「ダメだから」

焦げ付いたフライパンを流しに置いて、流水と洗剤を注ぎながら、お母さんは言った。

「料理くらいできなきゃ、ダメだから」

あれからもう何日も経ったけど、まだ一度も、食卓に卵焼きは並んでいない。

( ´(oo)ˋ )


道の駅と呼ばれる場所に、徒歩で突入したのは初めてだ。伯父さんの家まで、あと十五分。喉も乾いたし、お手洗いも行きたいし、丁度いいからここで休憩をとることにした。

わたしがお手洗いから出ると、特産品を売っている建物の前にあるベンチで、陽一が座っていた。もう付属品のような自然さで、足元には木箱がある。

「さっきはごめんね、お母さんもわたしも感じ悪くて」

「ううん」

「楽しいデートのはずが、巻き込んじゃったし」

「これも楽しいよ。な、お前もそう思うだろ?」

陽一が木箱のフタを少しずらす。急に光が入って、眩しそうな顔をしたすっぽんがご開帳した。何度見ても怖い見た目だが、箱ごと抱っこしてここまで来た陽一はどことなく嬉しそうだ。

「散歩させてやった方がいいかなあ」

「やめなって」

軍手をつけて甲羅を触ろうとするが、威嚇するようにすっぽんが口を開けるので、「こわっ」と引っ込める。

「こらこら、それは危ないぞ」

隣りのベンチに、白いひげをたくわえてメガネをかけたおじいさんが座っていた。片手には杖と、売店の小さなビニール袋を下げているところを見ると、散歩中の地元の人みたいだ。

「すっぽんはな、後ろを持てばいい」

急にあらわれたすっぽん博士に驚きを隠せなかったが、いやに説得力のある低い声の持ち主で、言われるがままに陽一はすっぽんの後ろに手をかざす。

「もっと後ろだ。首が届かないところ。くぼみがあるだろう」

「……これか!」

陽一が感心しながら、すっぽんを恐る恐る持ち上げる。攻撃ができないとわかったすっぽんは、うなだれて大人しくされるがままになった。彼の指はちょうど甲羅の良きところに収まっていた。

「グッドデザイン賞だな、お前」

陽一が感動したように、すっぽんを褒めた。

おじいさんが、ビニール袋の中から海老せんべいのパッケージを取り出し、一枚を割って箸でつまみ、すっぽんの口元へと持っていく。首が縮こまったバネが弾けるみたいに、凄い速さで伸び、海老せんべいに食らいついた。

「やってみるかい」

「いいです」

わたしは即答する。

「あんたのすっぽんだろ。腹減らしたままじゃ、かわいそうじゃないか」

わたしのすっぽんでもないんだけどなと思いつつ、すっぽん博士の説得力には勝てなくて、差し出された箸と海老せんべいを受けとってしまう。

やってみると、すっぽんが箸の先までガッツリと咥えてしまって、どうにも離さない。

「うわ。指だったらやばかったな、これ」

「ど、どうしよう。ぜんぜん離してくれない」

バリン、と木製の箸に亀裂が入る音がする。少しでも力を抜いたら箸ごと持って行かれそうだ。

「引っ張っちゃだめだ。じっとして」

ジャンプして噛み付いてこないことだけを願いつつ、すっぽん博士の言う通りにしたら、すっぽんは急に興味を失った三歳児みたいにするりと箸から口を離した。

「臆病な動物だからね、安全だとわかると離すんだ」

「へえ」

「噛まれてもあわてず、水の中に戻してやると帰っていくよ」

「すっぽんに詳しいですね」

「あっちの方にある用水路に、昔はウヨウヨいたんだ。今はそうでもないが」

「噛まれたこと、あります?」

「ある」

すっぽん博士の悲しい過去じゃないか。

「一回噛まれてるのに、怖くないんですか」

「子どものときは怖かったよ。怖いままが嫌だから、知ろうとして、詳しくなったんだ」

木箱のなかに戻ったすっぽんは、おかくずの中へと戻っていく。パリ、パリ、とせんべいを大切そうに咀嚼する音が聞こえる。

「ごめんね。お前のこと、ちゃんと知らずに気味悪がったりして」

すっぽん博士が散歩に戻っていくのを見送ったあと、なんとなく言っておかなければきまりが悪い気がして、木箱の中のすっぽんに向かって話しかけた。

もちろん、返事はない。

代わりにわたしの頭の中で返事をしたのは、なぜかお母さんの声だ。いつもどおりの一本調子で「大丈夫」とだけ。あれはどう見積もっても、大丈夫な人が使う、大丈夫という意味じゃない。シャットダウンするような。噛み付いて、飲み込んでしまうような。そういう大丈夫だ。

だけど人間だって、意味もなく他人に噛み付いたり、怒ったりしない。意味はちゃんとある。意味がないことなんてない。ただ他人が知らないだけで。

「美月ちゃん」

ずいぶん長い間、すっぽんを眺めてしまっていたらしい。陽一の声で視線を上げる。

「ごめん」

「あのさ、お母さんってどんな人?」

「急にどうしたの」

「そういえば俺、病気のことばっかり聞いてたから、どんな人かぜんぜん知らなかったなって

「お母さんはね、乙女座」

「乙女座?」

「しっかり者で、なんでもできて、どんなトラブルがあってもお母さんがいればたちまち大丈夫になっちゃうっていうか」

「俺も乙女座なんだけど」

「……えっ」

「お母さんと似てる?」

「似て……ない、ね」

星座占いなんかに固定観念を作られていたら、くだを巻いていた伯父さんと同じになってしまう。危ない、危ない。自分の言葉で思い出さなければ、お母さんの姿を。

ふと、足元が目に入る。

つま先が見える形の、マスタード色の鮮やかなパンプス。ちょっと高さのあるヒールでここまで歩いてくるのは少し大変だったけど、革がよく伸びてフィットするから、靴ずれはまったくしていない。お母さんが選んで、お母さんが履いていたパンプス。

お母さんはこれに真っ白なワイドパンツをあわせて朝でも夜でも、しゃんと背筋を伸ばして、どこへでも足早に歩いていた。お母さんは美しくて、かっこよかった。

「いつもおしゃれで、こだわりが強くて、でもたまにお茶目なところもわたしには見せてくれて」

もう履けなくなったからとわたしにくれた、パンプス。

「でも、病気になって変わっちゃった」

「そっか」

「力になりたいのに、全然頼ってくれないし」

「お母さんは、変わりたくないのかも」

「変わりたくない?」

「うん。かっこいいお母さんだから、かっこ悪いとこを美月ちゃんに見せたくないんじゃないかな」

「かっこ悪いって……そんなの、病気なんだから、どうしようもないよ」

特産品売り場のある建物から、お母さんが出てくるのが見えた。バッグの中に、買ったばかりのペットボトルをしまっている。入り口に15cmくらいの段差があるのだけど、

「あっ……」

降りようとして、お母さんの片足がふらつく。転ばないように横へ突っ張った手が、ちょうど壁に届いて身体を支えた。

家族なんだから、弱いところは見えてしまうし、見せてしまう。見せてほしいのに見せてくれない。一番近くにいるから、一番遠いところへ追いやってしまいたくなるのも、家族だ。

病気を受け入れて変わってほしくて、わたしはお母さんに寄り添って、思いつく限りの優しさを差し出していた。だけどそれは、変わりたくないと願うお母さんのためになっていたんだろうか。いま、駆け寄って、お母さんの腕をとる自分を想像する。お母さんはきっと「大丈夫」と笑って、その手を避ける。

「……あれ?」

陽一が、足元の木箱を覗き込み、息を飲む。

「すっぽんは?」


( ´(oo)ˋ )


スマホの検索サイトに「すっぽん 捕まえ方」と打ち込むと、57万件もヒットした。嗅覚が鋭いのでサンマやサバをエサにして針で釣り上げると書いてあったが、姿の見えないすっぽんには効果が無さそうなのでキーワードに「失踪」を付け加えると、瞬く間に検索結果は0になった。もしかするとわたしたちはいま、貴重な事例に立ち会っているのかもしれない。

「すっぽん!すっぽんやーい!」

道の駅、駐車場をくまなく探しても見当たらず、一車線の道路を渡って向こう側にある土手まで捜索範囲を広げる。伸び放題の雑草をかきわけながら、陽一がひっきりなしに叫ぶ。

「こんなことなら名前つけておけばよかった……」

すっぽんが自分の名前を理解できるだろうか。

「もう諦めましょう。日が暮れちゃうわ」

お母さんは中腰になるのが辛いのか、途中で探すのをやめて、土手の上からすっぽんがいないかを眺めていた。

「すっぽんが干からびちゃうよ」

「だってどうしたらいいか、誰もわかんないじゃない」

「すっぽんやーい!干からびる前に戻っといでー!怖くないぞー!」

「言葉なんてわかるわけないでしょ!人とは違うんだから」

お母さんが呆れて、陽一に言った。

「言葉があっても、全然わからないよ!」

気がついたら、お母さんよりも強い声で、言い返してしまっていた。すっぽんに向けられたはずのお母さんの言葉が、なぜか自分に突き刺さった気がした。

「大丈夫とか、心配しないでとか、お母さんはそう言うけど。ぜんぜん、そんな風に見えない」

「……美月?」

「わたしが頼りないのかなっていろいろ頑張ってみたけど、なにも上手くいかない。お母さんに拒否されるばっかりで、わたしができることって、一人でどんどん辛そうになってくお母さんを黙って見守るだけ。ねえ、わたし、どうしたらいい? お母さんのためになにができる?」

涙がぼろ、とこぼれる。陽一があわてて、ありとあらゆるポケットに手を突っ込んでハンカチを探しているのが目に入る。

黙っていたお母さんが、口を開いた。

「お母さんも、わからないの」

お母さんの涙も、ぼろ、とこぼれた。

( ´(oo)ˋ )


「元気そうでよかった」

安堵している同僚を見て、傷ついている自分に気がついたとき、彼女は悟った。治らない病気というのは、理不尽に世界を恨む呪いにかかるようなものだと。

半年前、NMOSD急性期の重い症状が落ち着くと、彼女は勤め先である進学塾に復帰した。立ちっぱなしになることが多い講師職ではなく、総務職として。課長代理という待遇をくれた勤め先には感謝しているが同時に、ただでさえ穴を空けた上に融通を効かせてもらった自分が、さらなる迷惑をかけてはいけないというプレッシャーにも襲われた。

眠るときも、目覚めるときも、彼女はいつも同じことを繰り返し、強く、強く祈る。

「どうかしびれませんように。痛みませんように。苦しみませんように」

夜明けがくると、彼女はベッドからおそるおそる這い上がる。だめな日はもう、この時点ですぐにわかる。みぞおちのあたりが重くなり、思い出したように吐き気に襲われて、休職を告げる電話に必要な引き継ぎ内容を全速力で整理しながら、片隅で世界の終りを願う。

祈りが通じてなんとか出勤できても、突然、痛みやしびれがひどくなることもあった。その度に彼女は、もしかして歩きすぎただろうか、思いつめすぎただろうか、と自分を落ち度を責めては後悔する。

「大丈夫?」

状況を察した上司や同僚に尋ねられ、反射的に「大丈夫」と答えてしまうようになったのは、そういうどうしようもない罪悪感が邪魔をしているからだ。我慢をする。それが、彼女なりに今できる、病気との向き合い方だった。

彼女の顔は、水分や食事を控えていても、関係なくむくんでしまう。炎症を抑えるために使うステロイド薬の副作用だ。病人と聞いて皆が想像する痩せこけた頬とは結びつかないためか、「元気そうでよかった」と安心されることが増えた。

どれだけ内情が辛くても、元気そうに振る舞っているのは自分だ。仕方がない。辛いなら辛いと言えばいいだけの話。相手に悪気はない。

ちゃんとわかっているのに、それでも、誰にも言えない。言えないまま、一人で傷ついている自分が、彼女は情けなくて憎らしかった。

「元気そうでよかった」が頭の中で反響して、「元気そうに見えるんだから、元気にならなくちゃ」に変わる。

他人に辛いと言えないのには、理由がある。どうすればいいのか、どうしてほしいのか、どうしたいのか、それが彼女にもわからないのだ。この病気は容赦なく彼女を振り回し、翻弄する。

言葉にしようとすると、すべてが解決策のない弱音に聞こえてしまった。仕事が忙しい時期に、そんな弱音を聞かされる相手の立場を想像すると、耐えられなくなった。

期待に答え続けてきた彼女だからこそ、もういらない、と言われるのがなにより恐ろしい。

「ストレスや疲労によって重い症状が再発しやすい」という医師の言葉が思い出され、恐怖の連鎖にさいなまれる。

結局彼女は、三ヶ月と経たないうちに休職を申し入れた。

家でも上手くいかないことばかりだった。体調の悪い自分の代わりに、娘が健気に家事や気遣いをしてくれる。立派に育ってくれたことを誇らしく、ありがたく思うけれど、彼女はここでも恐怖に襲われる。

なにもしてやれず、心配と手間だけをかけさせ続ける母親など、いらないのではないかと。

優しく育ってくれた娘がそんなことを言うはずがないのは、心の底から知っている。彼女のことをいらないと思っているのは、元気でない彼女のことを許せないのは、誰でもない、彼女自身だ。

どうしたらいいのかが、わからない。

どうしてほしいのかが、わからない。

気がついたらいつも一人になることだけを考えてしまい、誰かを突き放す言葉が口をつく。だけど、そのたった一人の自分さえも、自分の知らない誰かに変わっていく。

( ´(oo)ˋ )



土手の端のあたりでうろうろしていたすっぽんをやっと回収し、三人とも泥だらけで伯父さんの家へたどり着いた頃には、辺りは薄暗くなっていた。

「よかれと思ったんだが、悪かったなあ」

木箱を受けとった伯父さんがやたらと申し訳なさそうにする。出発したときは文句のひとつでも言おうと思っていたけど、誰もそんな体力も気力も残っていなかった。

「遠いところわざわざ来てくれたんだから、一緒に飯でもと思ったけど、このあとも農協の当番があってな。あっ、昨日もらった鰻があるな。持ってくか?……っつーか、俺が今からササッとすっぽんさばいてやりゃいいのか!ちょっと待ってろよ」

「鰻!鰻がいい!」

わたしと陽一の主張が重なった。なんだかもう、このすっぽんを食べる気にはなれなかった。それからしばらく、伯父さんはお母さんを気遣うように会話をしていた。「大丈夫」と笑って繰り返すお母さんを見ているのがつらくて、わたしは目を逸らしてしまう。

「じゃあね、バイバイ」

聞こえたかどうかはわからない別れをすっぽんに告げて、わたしたちは帰路につく。伯父さんの家から50mほど離れた場所にあるバス停に、三人で並ぶ。

「なんとか無事に終わったね」

「……ぐすっ」

目を疑った。陽一が鼻をすすって泣いていた。嘘でしょう。

「だって、あいつ、最後に俺たちの方見て……」

「陽一がえびせん持ってたからじゃない?」

「は、爬虫類の浅ましさ……! いやっ、それでもかわいい!愛おしい!」

「でもやっぱりあいつ、食べられちゃうのかな」

伯父さんいわく、あれは川で捕まえたわけではなく、近くの養殖所から買い取ったすっぽんとのことだ。食べるために育てられていたのだから、きっと、他の誰かに食べられてしまうのだろう。

「あ、だめだ、想像したら心が折れそう」

「もうやめよう。わかんないことを考えるのは。しんどいし」

今度はお母さんじゃなくて、わたしが制した。考える方も、考えられる方も、しんどいよ。わたしはお母さんを見る。お母さんは黙ったまま、所在なさげに組んだ指をじっと見つめていた。

「迎えに行く?」

お母さんが突然言った。

「えっ?」

「後味悪くて、このままだと夢枕に立ちそう。すっぽんが」

夢枕に、すっぽん。想像して吹き出しそうになった。

「迎えに行っても、そのあとどうするの?」

「さあ」

さあって。お母さんが後先をなにも考えず、こんなことを言い出すのって、とてつもなくめずらしい。

「どうしたいかは、すっぽんにしかわかんないし」

「それは……そうだけど」

「後悔があるならもうちょっと一緒にいよう。ずっとわかんないかもしれないし、もしかしたら、わかることがあるかもしれないし」

「……ずっとわかんなかったら?」

思わず聞いてみる。

「それは、それで」

お母さんは笑った。

「本当にわかろうとしてくれる人がいるっていうだけで、嬉しかったから」

( ´(oo)ˋ )


彼女は、こんなにも自分の気持ちがわからなくて、途方に暮れているのは、自分だけだと思っていた。ほとんどの人はかかることがない、めずらしくて、難しい病気だから。

でも、最愛の娘も、わたしのように途方に暮れていた。

隣にいる家族には心配させまいと元気に振る舞いながら、心の内では一生、この孤独の底で、苦しみを抱えてうずくまっていくのかと思う絶望は、彼女が誰よりも知っている。そんな絶望を娘も抱えていたと知ると、心の底から情けなさがこみ上げる。

同時に、ふとした安心感もあった。

相手のために、相手のことをわかりたいと願う心を、持ってくれている人が、こんなに近くにいる。同じものを見ようとしている一人ぼっちが、ここに二人いる。

わからないことをわかっている二人が、わかろうとしていく。いくら時間がかかろうとも。それだけで、どこか救われる心地でいた。

「美月、ありがとう」

わかりたいと思える母親で、いさせてくれて。郁子は、あふれ出してしまいそうな涙をこらえながら、踵を返す。


( ´(oo)ˋ )


夕に暮れていく田舎道を、わからない者同士がゆっくり、ゆっくり歩いていく

未来は、明るくも暗くもなる。夜更けと夜明けを繰り返す。寂しくて、怖くてたまらない日も、わからないもの同士が寄り添って、越えていく。泣きながらも、笑いながらも。わからないということを諦めながら、でも、いつかわかりたいという気持ちも抱き続けて。

「……俺も!卵焼きとか、作りますんで。味には自信ありますからっ」

わたしとお母さんのやりとりにポカンとしていた陽一が、うんうんと悩んだあと、急に名乗りをあげた。それはちょっと違うなあ、とお母さんが笑った。違うなら、探していけばいい。

「お母さん、どうしたら歩きやすい?」

お母さんが足をさすっているのを見て、わたしが言う。「大丈夫」と言いかけたお母さんが、わたしと陽一を見て、すこし迷ってから、片方ずつ腕をとってくれた。

( ´(oo)ˋ )


家のベランダで洗濯物を干していると、お母さんの弾んだ声がした。

「美月、これ見て!」

「ん?」

お母さんがストラップみたいなものを引っ張ると、シャキシャキシャキッと軽い金属音が連続して鳴り、一瞬の内にそれはステッキになった。

「なにそれ!?」

「便利でしょ。手品にも使えるし」

「どうしたの。それ」

「陽一くんが」

「陽一が?」

「ほら、わたし、よく転びそうになってたから」

わたしはドキッとした。陽一がまたなにかを早とちりしてしまったのかと思ったからだ。

「この間、兄さんの家から帰るときにね、ちょっと聞かれたのよ。歩く時に困ることはないかって」

そんな会話があったなんて、全然気がつかなかった。そういえばわたしは帰りの電車で、疲れきって眠っていたっけ。

「そういえば調子が悪い日は杖があったら楽だなって思うけど、おばあちゃんみたいな仰々しい杖を持つのが恥ずかしいなって言ったら」

「陽一からもらったの?」

「ううん。言うだけ言って、自分で探したの。わたしそういうのがほしかったんだって気づいて」

「ありゃ……」

「これいいわよね、カバンに入るし、お守りって感じ」

緊張していた肩の力が抜けそうになる。お母さんはシャキ、シャキ、とまた軽い音を響かせながら、ステッキを戻しはじめた。

「じゃあそれ持ってさ、今から買い物に行かない?」

「いいわよ」

「……ほんと?」

「今日は調子もいいし」

昨日よりも、今日の方が調子がいい。だけど明日はわからない。わからないからこそ、先のことはあまり考えないようにしていると、お母さんは打ち明けてくれた。いつか、考えられる日がくるまで、わたしもそうやって待つことにする。

「いってくるね、ポンちゃん!」

バタバタと支度を整えたあと、玄関に置いた大きな水槽に、わたしは話しかけた。ポンちゃんはざぱあ、と水面から顔をあげて、こちらを見ていた。



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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。