大人になったら手に入らないけど、贈ることはできるもの
渋谷パルコの『ほぼ日曜日』イベントで、写真家の幡野広志さんとお話した。
幡野さんは、奥さんと、息子さんの優くんへあてた48通の手紙をまとめた『ラブレター』という本を出されたばかり。
そんなラブレターにも収録されている写真と文章が、息をするように並べんだり、浮かんだりしている展覧会場に、たくさんの人たちが集まってくれた。
お話するテーマは『family』なので、わたしは母をつれて、familyで参加した。たぶん、幡野さんが思うfamliyと、ウチは似てるんじゃないかと思った。似てたらいいなとも思った。
これがマフィアにおけるfamilyだったらまったく別の意味になるし、わたしもまったく別の人を連れてきたので、言葉は意味よりも、だれが言うかが重要なのだ。
イベントのはじまりが19時だったので、早めにパルコへ着いたわたしと母は、ご飯を食べることにした。
たまたま「13歳からの地政学」というとても良い本を書かれた、田中孝幸さんが賑やかしにきてくれたので、一緒にお肉を食べた。
ノンアルコールカクテルのシンデレラを頼んだら、わたしの知るシンデレラとは似ても似つかない蛍光グリーン色の飲み物が出てきて、言葉を失っていると。
「あれっ」
田中さんが、素っ頓狂な声を出した。
幡野さんが、カメラを構えて、手を振っていた。
考えることはみんな同じだ。
腹が減ると、人は吸い寄せられるように、デパ地下をうろつくのである。冬眠明けのクマも同じだ。心なしか、幡野さんもずんぐりして見える。
この時間、お店がここぐらいしか開いてなくて、よかった。
幡野さんが、田中さんの隣りに座った。
あらかじめ決められていたように四人がけのテーブルで、そのひと席だけが開いていたし、幡野さんもなんも言わずそこで軽快に食事をはじめたので「もう、あんた、なんべん呼んでも出てこないんだから、下げちゃおうかと思ったわよ!いっぱい食べなさい!」とか誰か言い出しそうな空気である。
いい食卓をいい人たちで囲むと、わたしの経験上、“オバチャン”の空気が漂う。よく飲み、よく食べ、話題がゴロンゴロン変わるわたしたちは、いい感じのオバチャンだった。
オバチャンなので、雁首揃えて約束の時間に五分遅れてしまい、縦に並んで、小走りに会場へ入った。サザエさんのエンディング、最後のシルエットの動きを参考に。
イベントは、三部制。
まず幡野さんと母、その次に幡野さんとわたし、最後に三人がそろって喋る。中学校でなにかをやらかした生徒の三者面談のようだったが、あとから「これはガンを告知される患者さんのような流れでもあるな」と思った。
言っていいのかわからなかったので、シンデレラとともに飲み込んだ。
お話したのは、どれもハッとしたし、おもしろかったし、観光地で買ったマグネットのように大切にして、ずっと冷蔵庫に貼っておきたいと思えることばかりだった。
ここでは、わたしがいま、うちの冷蔵庫に貼ってあるお話だけを、見せびらかしていきたいと思う。
あまりにも楽しくて、メモをとっていないので、幡野さんも母も、正確にはこんなことを言っていなかったら、申し訳ない。
あくまでも、わたしのなかでの、お話なので。
うちはこういう感じで、やらせてもろてますんで。ええ。
1.大人になったら、自己肯定感はあがらない
こんなにも絶望的な響きで、救済的な味をした言葉が、あるだろうか。
母と幡野さんが、子育てから、自己肯定感の話へ進んだとき、幡野さんが口にし、母が手を叩いて大きくうなずいた言葉だ。
「自己肯定感と自信って、違うんですよね」
自己肯定感とは、ありのままの自分でいいんだと認め、尊いものとして、自分を信じて、大切にすること。
自信とは、勉強や仕事での成功を積み重ねて、自分の能力を信じること。
この2つは、影響しあっている。
80点の成功をしても、自己肯定感が50%しかないと、40点のように思えて「もっと頑張らないと」と落ち込んでしまう。自己肯定感が120%あると、96点のように思えるのに。
「大人になって、成果をあげれば、自己肯定感は上がるかと思ったけど、上がらないんですよ。自信はつくけど」
写真家として、作家として、猟師として、いろんな仕事をしてきた幡野さんが言う。幡野さんは、自己肯定感が低いのだ。
そして、うちの母も、低い。
「そうそう!本当にそうです。子どものとき、家族やまわりの大人からどれだけ褒めてもらえたかっていうのでしか、上がらない」
母の母、つまりわたしのばあちゃんは、母をめったに褒めなかった。母が風邪を引いたら怒って、泣きながら悩みごとを打ち明けると面倒くさがった。いろんなことに関心が薄かっただけかもしれないけど。
なんの能力も、成果もない、まっさらな状態でも、なんもない自分でも、ただそこにいるだけで、なんぼでも話を聞いてくれて、褒めてもらえる経験なんて、たしかに子どものときぐらいだよな。
子どもはたぶん、最初から、世界にある美しくて、面白くて、愛しいものをぜんぶ知っている。大人になり、年を経ていくと、そこに、価値や、見栄えや、余計なものがいっぱいくっついてしまう。
幡野さんと母が、優くんとわたしをいっぱい褒めてくれるのは。
大人になったらもう二度と手に入らないものを、自分たちが心からほしいと願ったものを、どうにか作って、風呂敷に包んで、お持たせしてくれているのだ。
自己肯定感という形をした、祈りだ。
あまりにも褒めてくれるから、小学校にあがって、周りの先生や友だちがわたしをあまり褒めてくれないことに、落ち込んだこともあったけど。おかげさまでわたしは、自分のいく道を、いつだって遊歩道のように思えている。道に迷っても、風呂敷をあければおにぎりがある。ヤッホー!ヤッホー!ヤッホー!
この話は、ここで終わらない。
幡野さんは『ラブレター』のなかで、「自分のやりたいことがわからない」と悩んでいる学生さんたちに、こんなことを言っている。
「コンビニで好きなお菓子を選ぶことからはじめたほうがいい。それができたらファミレスで好きな料理を選んで、好きな洋服を選んで、好きな本を選んで、好きな映画を選んで、好きな音楽を選んで、そして好きなことを勉強してほしい。たくさんのちいさな自分の好きを探して、選びなおすしかありません」
こんな祈りを告げられる幡野さんが、本当にすごいと思った。
自己肯定感を上げよう、と、成功した人たちはよく、声高に叫ぶ。それにつられて、必死で自己肯定感を上げようとする。走っても走っても、ちっとも前に進まない、ハム太郎の滑車みたいに。わたしたちはハム太郎ではないので、楽しむこともできず、力尽きて、いつか倒れてしまう。
自己肯定感って、わたしの手、みたいだ。
わたしの手は、昔のクリームパンみたいな形をしている。手の甲がムクムクとふくらんでいて、五本の指が短くて太く、おはじきみたいなサイズの爪がついている。
ネイルサロンでは、爪が小さすぎて凝ったアートはできないし、キラキラの石も載せられないし、それなのに、料金は据え置き。いやになる。
大人になったら、細くて、アガットの華奢な指輪が似合うようになるのだと思ったが、依然、両手にクリームパンのままである。
でも、今からどれだけ頑張っても、この手は変わらないのだ。いやになっちゃう手と、いやになっちゃう自分と、生きていくしかない。いやになっちゃったなと泣きながら、ちょっとでもこの手で、好きなことをやっていくしかない。この手のことは、逆立ちしたって、好きになれなくても。
いまみたいに、キーボードのタイピングとかさ。あるよね。
2.入院にはバーバリーのトレンチコートを
おそるおそる、切り出したのは母だった。
「長く入院してると、その、夜勤の看護師さんとよくお話するじゃないですか。それで、あの、いつも親切にしてくださって、ほとんどは嬉しいんですけど……たまに、はずれの看護師さんに会うことってないですか?」
はずれの看護師さん。
病気をして、助けてもらってるときに、こんな言い方をしていいんだろうか。それでもよっぽど聞きたかったんだろう。母の声の音量はひとつ落ちてるが、トーンはひとつ上がっている。
「会いますね。大はずれの看護師さんが」
幡野さんと母が、顔を見合わせて笑った。会場の人たちも笑った。
言っておくが、幡野さんも母も、病院に長くお世話になっているし、そこで働いている人たちに感謝をしている。
それでも、たまに、暗くて寂しい病室で、声をあげて泣きたいくらい悔しくなってしまうときがあるのだ。大はずれの看護師さんに会うと。
母がいう、大はずれの看護師さんとは、こんな具合である。
・日勤のときに会うと、普通。むしろ親切なときもある。夜勤になると人が変わったかのようになる。
・血圧をはかりにくるとき、あいさつしても、声をかけても、返事はない。たまにあっても、トゲがある。
・「寝返りを打つのを手伝ってほしい」など頼みごとをすると、大きなため息をつかれる。
恐ろしい。
自分がなにかしてしまったのかと悩み、母は一度、仲のいい看護師さんに事情を聞いたことがあるそうだ。
母が入院していた心臓外科というのは、命に関わる病気で、しかも体力のないご高齢の患者さんも多く、気を張っている時間が長い。
そしてご高齢の患者さんは、若い患者さんに比べると、ナースコールを押す回数が多い。シンプルに困っているときもあれば、文句を言って憂さを晴らしたり、話を聞いてほしくて、看護師さんを呼ぶそうだ。看護師さんたちは、やることがたくさんあって、とても忙しい。
気を張って疲れていて、しかも、愛想良くして仕事が遅れて痛い目を見た、という看護師さんだったら、大はずれになるのもうなずける。それは、自分を守る術でもあるから。
それでもやっぱり、病気で身も心もこたえているときに、大はずれは引きたくないところである。人間だもの。
幡野さんは言った。
「僕は、入院するとき、バーバリーのトレンチコートとか着ていきます」
バーバリーのトレンチコート。32万4500円。なぜ。
パーティーにしか着ていきたくない代物である。
「わかる!わたしも、お高くて真っ青とか真っ赤なブラウスで、きちんとセンタープレスの効いた白いパンツを履いて、ネックレスや指輪もジャラジャラつけて入院します」
パーティの話をしているのだろうか。
いや、二人とも入院の話をしている。入院だから、手続きをして、病室に通されたらすぐ、見るからに気の毒そうな病院服か、この世の終わりみたいな灰色をしたスウェットに着替えるのだ。
ただでさえ狭い戸棚を、トレンチコートやブラウスが占領する。
「なんでそんなん着ていくんですか?」
わたしが聞くと、幡野さんと母は「わかってないな」という顔をして答えた。
「お金持ちがきたぞ!と思ってもらいたいから……」
「冷たくされたら、セバスチャンに言いつけるザマスよ!って感じで……」
発想が、発想がすでにまったくお金持ちではないので、これによって、大はずれの看護師さんが優しくしてくれるようになるかは、疑わしい。
それでも、命が危ないほど切羽詰まっているのに、せっせとトレンチコートやブラウスを引っ張り出して、ゼエゼエ言いながら病院へ向かう二人の姿は、絶望とは情けないくらいにほど遠い。
笑ってしまった。
3.家族ほど、言わないとわからない
「がん患者の家族ほど、“こんなこと言わないでもわかるでしょ!”ってお互いが勘違いして、ケンカしているのをよく見ます」
幡野さんが言った。
わたしも前に、新聞に寄せたエッセイに、同じようなことを思って、書いた。
家族というのは厄介な存在だ。一番近くにいるから、一番遠いことに気づけない。
あの子のことは、わたしがわかってるから。
あの人は、こうしてあげないとダメなのよ。
これが好きなんでしょ。こういうのは食べないから。前はいらないって言ったもんね。いまはそんなことしてる場合じゃないの。これが大切に決まってる。こうしたいに決まってる。
こんなにも、あなたのことを知っている。
あなたも、わたしのことを知っている。
なのに、どうしてわかってくれないの。
こんなすれ違いが、今日も地球のあちこちで起きて、地球が壊れそうなほど悲しんでる人たちがいる。
一人で勝手に思い込んで、一人で勝手に怒鳴り散らしたことが、わたしにもあった。
母とは、父を亡くしてからは、わりとずっとそうで、これがなくなったのは、エッセイを書きはじめてからだ。母に「あのときどう思ってた?」と聞くことが増えて、母の答えがわたしの予想と全然違っていて、驚くのを永遠に繰り返した。今も。
たとえば、中学生で反抗期まっさかりだったとき。
わたしは母に「ママじゃなくて、パパに生きててほしかった!」と言ってしまったことがあった。ひどすぎて、十数年、ずっと引きずっていた。
でも、母はトンと忘れていた。
「奈美ちゃんはほんまにそう思ってたんじゃなくて、パパを失ったつらさを、どうにかしてわたしにぶつけたかったんやろ。それがわかってたから、わたしは気にしてなかったんやと思う」
逆に、母は、歩けなくなったとき、わたしに「死にたいなら死んでもいいよ」と言われたことを、ずっとお守りのように覚えていた。
母に生きたいという気持ちを泉のように湧きだたせたその言葉を、今度はわたしが、トンと忘れていた。
哲学を研究している近内悠太さんという友人がいる。
こないだTwitterのSpaceで話してたときの、近内さんの言葉を思い出す。
「落ち込んでる人に、名言を贈ろうと思っても、それって届かない。本当に人を救うような幸せな贈り物っていうのは、言った方は忘れてしまってるくらい、ささいな言葉なんだよね」
言った方は、忘れている。
言われた方は、覚えている。
「あのとき、あなたのこんな言葉に、助けられたんだよ」
数年立ってから、打ち明けられると、言われた方はビックリする。ビックリしたあと、あふれるくらい嬉しくなっちゃう。
だって、それは、無理やり、作った言葉じゃないから。
忘れてしまうくらいの、自然な発露だから。ありのままの自分の存在を、行きているだけのことを、認めてもらえるのと同じだから。
ひとしきり、嬉しさを噛み締めたあと、こう返すんだろう。
「こちらこそ、思い出させてくれて、ありがとう」
わたしみたいに。
幡野さんの書いた『ラブレター』という、48通の手紙は、そういう贈り物なんだと思う。
ここに書かれている、優くんの瑞々しい日々の半分くらいは、優くんにとって記憶にない思い出になる。
わたしは、父と交わした言葉を、ほとんど覚えていない。
だけど、『ラブレター』のなかには、紛れもない“今日”がある。かしこまった別れの言葉も、夢を託すような言葉もないけど、マトリョーシカの中にお金を隠したとか、カフェラテを作ってもらったとか、そういう言葉で埋め尽くされている。
幡野さんが、時間を止めて書き写した“今日”は、ずっとそこに留まって、息をし続ける。
それを、奥さんと優くんは、読むかもしれない。読まなくてもいいし、むしろ読まないぐらいがいい、と思ってるところが、幡野さんの素敵なところだ。
届かないかもしれない贈り物ほど、相手を強く想わないと、贈れない。
記憶にない“今日”に、きっといつか、わたしたちは支えられる。わたしもそういうつもりで、エッセイを書いている。書いた方は書いた方で「……マジで?」と、驚いている。たぶんね。
幡野さんが、舞台の上で撮ってくれた。
本当は、わたしと幡野さんの間にはアクリル板があって、これはアクリル板越しに撮っている。
「アクリル板があると、撮ってる僕の姿も反射して、いい感じになるんだよ」
幡野さんがそう言うので、そういうもんかと思って背筋を伸ばして撮ってもらった。あとで写真を見たら、幡野さんが全然映ってなくて笑った。いないじゃん。
いや、拡大してよく目をこらしてみたら……いる……か……?いや、いないな。いないよ!幡野さん、いないよ!
いないけど、わたしは、カメラを構える幡野さんの顔が、今ならまだ鮮やかに思い出せる。いつも薄目で写真の上に浮かべられるよう、覚えておきたい。
ところで、わたしが撮った写真はこれだった。
よりにもよってこの一枚きりで、よりにもよって幡野さんが笑っていない。虚無である。完全に連れてこられたポジション。ずっと笑ってたのに。
わたしは、幡野さんと別所さんに、大切な写真を撮ってもらったときのカメラがライカだったことに強くあこがれ、二年前にライカを買った。
ライカがほしい、とだけカメラ屋で伝えたら、二度見するようなお値段で、しかも引くに引けなくなったのだ。
「奈美ちゃん、それは車の運転と同じで、撮影の仕方を知らないだけだよ。今度会ったとき、教えるよ」
幡野さんが言ってくれたので、お言葉に甘えることにした。教習所に二回も通ったけど二回とも免許の試験に落ちて取れず母を泣かせたことを、言うべきかどうか、迷った。
イベントが終わってから、糸井重里さんが話しかけてくれた。
「今日はここにお父さんがいた気がします」
「本当ですか」
「お父さんとセットなんですね、君たちは。話してる言葉に、全部お父さんがいる。嬉しくなりました」
母は口を押さえて、本当に喜んでいた。母は長いこと、父の死を遠ざけていた。海外に出張していて、帰ってこないだけ、今は会えないだけ、と思いこんでいた。
でも、父はここにいるのだ。
あまり見せられないような失態もわたしはバンバンやらかしてるので、都合のいいときだけ、ここにいてほしいな。
あと、どこかしらから、なにかしらのお仕事をもらうときは「父もいますんで」と言って、三人分の交通費ももらえる説も出てきた。糸井さんは大笑いして「コラッ!」と言った。
「幡野さんのところにも、奥さんと、優くんがいましたね」
いましたね。
当たり前だけど、みんな、一人ではやっていけなくて。
そばにいる誰かが、言った言葉、書いた言葉以外のなにかを、受け取っていて。
そのなにかが、吐く息みたいに、わたしのちょっとした言葉や、ちょっとした言葉に、混じっていく。
ここに、みんなは、いましたね。
今回のイベントのアーカイブ(録画)配信は8月22日まで
『ラブレター』出版記念
幡野広志のことばと写真展 family
2022年8月21日(日)まで、渋谷パルコのほぼ日曜日にて
一家に一冊、ご贈答品にも立派な書籍『ラブレター』
横書きで、つるつるした紙で、フルカラーなのがお気に入りです
※このnoteの写真は幡野さんが撮影したものを使わせてもらいました。