元・大阪府知事だと思われている私のstay at home
このところ、毎日のようにDM(ダイレクトメール)を送ってくる人がいる。
DMと言っても、伊藤忠ファミリーセールの入場券が入っていたり、宝くじが面白いほど当たる開運ネックレスの案内が入っていたりするような、チラシの類ではない。
TwitterのDMだ。
ユーザー同士で、非公開の会話ができる機能である。チラシなんかよりよっぽどダイレクトだ。そのメッセージは、私のために紡がれている。
私はそのDMに、一度も返事をしたことがなかった。
なぜなら、こんなDMだから。
橋下徹さんと言えば、52代目の大阪府知事だ。
最初は、橋下徹さんの近況を感情任せに送っているだけなのかな、危ない人だな、と思った。
違った。
この人は、なぜか私を橋下徹さんだと思っている。
「もう良いです!」とか「最低です!」とか、日常であまり手向けられない言葉に、思わずたじろいでしまう。
まあまあそう言わずに落ち着いてお茶でも飲みなさんな、の一言でも送りたいのだが、いかんせん私は、橋下徹さんではないのだ。
府政の粉飾のカラクリを暴いた覚えなんかないし、単式簿記がなんのことかすらもわからない。
あの橋下徹さんだぞ。
夜通し食い倒れ人形が太鼓を打ち鳴らして練り歩き、グリコの巨人が有象無象を踏み潰しながら駆け回り、顔を上げれば宙をうごめくカニの爪に挟まれ、一度でも外に出ればおばちゃんが列をなしポケットに飴を突っ込んでくる、そんなカオス極まる街のトップにいた人だぞ。
重ね合わされても、矮小すぎる私は返せる言葉がなにもない。
そんな私の戸惑いむなしく。
橋下徹さんがTwitterでなにかをツイートする度に、テレビでなにかを発言する度に、彼から怒り狂ったお叱りのDMが届き続けた。
最初は迷惑だなあと思っていたのだが、あまりにも毎日毎日、橋本徹さんにキレ散らかし、その反応の速さや言葉選びはただならぬ気迫を感じるので、私の方もなにかしら報いなければ、と思うようになってしまった。
橋下徹さんだと思われている女として、せめて教養としての橋下徹さんのことを身につけておくべきだ。
DMが届けば「おっ、今日はどんなこと言ったのかな」と橋下徹さんのTwitterを覗きに行き、橋下徹さんが出ているニュースをチェックした。
彼の怒りがまっとうであるかをフラットな目線で確かめたくもなり、NewsPicksで橋下徹さんの記事を探し、コメント欄を読んだりもした。
気がつけば私は、大阪府政にめちゃくちゃ詳しくなっていた。
大阪府議会の定例議会の議事録も読んだし、大阪維新の会の主要メンバーも空で言える。
東京都民なのに。
そのような事情に詳しくなると、怒りのDMの印象が変わってきた。彼の怒りに共感することはないし、賛成をする気もないが、「だから貴方は怒っているんだね」と深い味わいを感じる。
これが前情報の大切さなのかと、感動した。
映画アベンジャーズを観る前に、それぞれのヒーローが独立して活躍するマーベル作品を観ておくと、感動もひとしおであるのと同じ理屈だ。
そんな異常が日常になった頃。
彼について衝撃的な事実が、判明した。ひっくり返るかと思った。
彼からこんなDMが届いた。
橋下徹さんに疑問を抱くなら、討論しろとおっしゃっている。
彼の文章には、明らかに「橋下さん」と「貴方」という、二人の登場人物がいる。貴方とは誰だ。
私だ。
えっ。
私は、橋下徹さんだと思われていなかった。
衝撃である。今まで私は、自分のことを橋下徹さんだと思い込み、知識のインプットに奔走していたのだ。それがここに来て、橋下徹さんとは思われていなかったことを知る。
積み上げてきた足場が、ガラガラと音を立てて、崩れていく。
じゃあ彼は、私を岸田奈美として認識していたということか。
でも辻褄があわない。なぜなら私は、Twitterで橋下徹さんについても、大阪府政についても、ツイートした覚えがないからだ。
ご勘弁される覚えも、メディアで討論に引っ張り出させる覚えもない。私は混乱した。妄想だけで人はこんなにも、狂った怒りをぶつけられるものなのか。
数日後、さらなる衝撃が脳天を貫いた。
太田さんって、誰?
私の母の旧姓が、太田である。しかも大阪出身だ。まさか母の旧友なのか。もうやだ、Twitter怖い。もう大阪に興味なんか持ちませんから許してください。
そう思った時。
私はハッとして、Googleでニュースを検索した。
太田房江さんだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
51代目の大阪府知事だ!!!!!!!!!
まさかと思ってDMをさかのぼってみると、これらが太田房江さんに送られたとすれば辻褄のあう言い分ばかりだった。
なんてことだ。
彼は橋下徹さんに怒っていたのではない。橋下徹さんとやりあっている、太田房江さんに怒っていたのだ。そして、私のことを太田房江さんだと思っていた。じゃあ橋下徹さんのツイートを引用すな紛らわしい。
なにからなにまで彼は間違っているが、私は伏線張り巡らされた長編のミステリ小説を読み終えたような心地になった。
これまでずっと既読無視していた彼のDMに、ねぎらいの意味を込めて、スタンプを押した。
それから一度も、彼からはDMが届かなくなった。唐突な別れだった。
徘徊と希望の世田谷区
そんな事件が起こりつつも、あいかわらず、家にいる。
冬眠明けのクマのように、朝の10時に空腹でモソモソと起き上がり、寝ぼけ眼で朝飯を食べ、また眠る。昼過ぎに起きて、原稿のひとつでも書こうとパソコンに向かってみるが、一文字も進まないので諦め、本や動画といふものを、私もしてみむとするなり。
もっぱら最近の嗜みは又吉直樹さんの「東京百景」、動画は「ラーメンズ」と「ヒプノシスマイク」だ。
そして夕飯を食べ、気休めに10分にも満たない柔軟や筋トレをしたあと、気づけば21時を回っているので、慌てて深夜まで原稿を書き始める。
「さすがにこれではいかん」と思い、できるだけ人がいない時間、人がいない場所を見計らって、食料の買い出しついでに散歩してみることにした。
具体的には、朝の7時ごろ、大通りから外れた住宅街を徘徊する。誰もいない。ハイパーソーシャルディスタンスである。
私が住んでいる世田谷区には、豪華そうな家が多い。小さな頃から今も中の下流家庭で育ったので、その手の語彙は自信がなく「豪華そうな」としか言えない。
あの家の前に置いてあるミケランジェロだかナニランジェロだかの巨大な石像は、なんて言ったらいいんだろうね。なんで巨大な石像を家の前に置こうとするんだろうね。ドラクエ5のジージョの家か。
ドラクエ5は名作だったな、もう一度やろうかなと思いながら通りすぎると、ふと足元の箱に視線がいった。
「ご自由にどうぞ」と手書きのポップが添えられた箱の中には、まだキレイなお皿とフライパンが、お行儀よく並んでいた。
はす向かいの軒先にも、同じようなものが置いてある。こちらは大きなスーツケースと植木鉢だった。
10軒歩けば、1軒はある。まるで無人のフリーマーケットみたいだ。しかも無料。マジのフリー。私は驚いた。
みんな自宅にいて、やることがないから、大掃除をしているのか。こんなに大きな家ばかりなのだから、不用品も山ほど出てくるだろう。しかも高いから質が良い。捨てるのは勿体ないから軒先に置いておいて、必要な人に持って帰ってもらおう。
恐らく、こんな感じなのだと思う。
すごい。世田谷区民は私のように、家の中にあるどんなゴミであろうととりあえずメルカリで売ってみて小銭を稼ぐ、といったせせこましい真似はしないのだ。富を分け与え、富を得る、豊かでていねいな暮らしがここでは定石なのだ。ううん、引っ越そうかな。
しかし、ご自由にどうぞと言われれば、ご自由に甘えたいのが私という矮小な人間だ。
私は無印良品に売っていてもなんらおかしくはない、美しいラタンのかごを一つ、もらっていくことにした。なにかお礼をしたいと思ったが、ろくなものを持っていない。
慌てて、持ち歩いていた文庫に挟んでいたしおりを取り出し、ボールペンで「大切に使います、ありがとうございます」と汚い字を走らせ、箱に挟んでおいた。
楽しい。
これは楽しいぞ、と味を占めた。今では週二で、散歩に出かけるのが楽しみになった。
すると、今度は農家の軒先にも、箱が置かれていた。これはめずらしいと近寄ってみると、発芽したいくつかの苗と一緒にポップが貼られている。
「野菜の苗です。ご自由にどうぞ」
秒で、ありがたくいただいた。
なんの野菜なのかは皆目検討もつかなかったが、野菜とくくる大雑把さも、鮮やかに青いプラスチックのポットも、ミミズののたくったような字も、なにもかもが愛しく思えた。
今日からキミは、うちの子だ。
早速、カインズのオンラインショップでプランターと土を買ったら。
間違えて、土のサイズの10倍くらいでかいプランターを買ってしまった。
気を取り直して、土を耕す。
うちの子になった。
どんな野菜になるんだろうな、とワクワクしていると、Twitterで「キュウリかゴーヤではないか」という有力情報を手に入れた。
ありがたい。みんな家にいても、生命を守るため、つながっている、私は急いで、キュウリかゴーヤが掴まりやすい支柱を買った。
今日も私は家にいる。家にいるけど、突然起こるトンチンカンなできごとに、いつも励まされている。