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お葬式のあと、母は一度も泣かなかった #あの日のLINE

昔から、細かい数字を覚えるのが苦手だ。

自分の身長、50m走のタイム、友人の誕生日、恋人の記念日、宿題の提出期限。
すべて覚えていた試しがない。

そんな私が唯一、細かく覚えている数字がある。


2005年6月9日18時42分。
父が亡くなった時間だ。


「娘さんが中学校から到着するまで、頑張って待っていらしたんですよ」

時間を読み上げたあと、病院の先生が言った。
むしろ私の記憶は、そこからおぼろげになっている。

お通夜もお葬式も、気がつけば、終わっていた。

「本日はお忙しいところ、夫・岸田浩二の……葬儀に……ねえ、なんでこんな挨拶せなあかんねんやろう。なんで死んだん、なんで……」

出棺前の喪主挨拶で、私の隣で母が泣き崩れた。
私と弟の手を握る母の手が、震えていた。


それだけは、どうにも確かだ。


病院でもお寺でも大丈夫そうにハキハキ振る舞っていた母が、実は大丈夫じゃなかったと知り、もう本当にびっくりした。

びっくりしたって言うか、ビビった。

「ああ、ママって泣くんや」と、当たり前のことを思った。それくらい母はいつも明るく、優しく、家族の太陽のような存在だった。

でも、それ以上にビビったのは。

葬式以来、母は一度も、父のことで泣かなかったということだ。

「パパは東京に出張してることにしよ。そしたらあんまり悲しくないはずや」

父がいなくなった家で、母は言った。

急になにを言い出すんかと思ったが、これはなかなかの名案だった。
母すげえぞ。

「父が亡くなった」と認識すればするほど、思い出してしまって、悲しくて苦しいからだ。現実逃避だし、悲しみの先送りでしかないが、それでも目先の絶望から逃れることはできたのだ。

そして、一年経ち、二年経ち。

東京に行った父がもう帰ってこないと知っても、悲しみの濃度は、少しだけ薄くなっていた。日常に支障が出ないくらいには。



時は流れ、2018年6月9日。

実家を離れて暮らす私は、母から届いたLINEを思わず二度見した。

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いや、急に軽くなりすぎじゃない!!!?!?!?!?!?!?!?!?!

「えらいこっちゃ〜」、ちゃうねん。
こちとらもう13年も経って、オトンのことは乗り越えてるねん。
せやけど、あんたに言ってもええもんかどうか、ちょっと迷っててん。

それを「えらいこっちゃ〜」って。
しかも、二匹出とるがな。
なにこれどういう精神状態で送ってきたん?

怖っ!

っていうか、パパ上って誰?

これが電話じゃなくて、LINEだったからよかった。
もし電話だったらちょっと私、たぶん言葉に詰まっちゃってた。

小一時間、悩んだ末に、私は返信した。

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かなり的確に、読者の気持ちを代弁できたのではないか。
名編集者である。この場合、読者は私しかおらんけど。
慮るのも慮られるのも、すべて私である。

あまりにも偲ばれ具合が意味不明すぎたので、夏の帰省で私は思い切って、母に尋ねてみることにした。

記憶にふたをしていた、父が亡くなった頃のことを。

「あのなあ、こないだのLINEのことやけど」(ワンワンワンワン)
「うん」(ギャンギャンギャンギャン)
「パパ上の命日でえらいこっちゃーって言うたやん」(ガウガウ)
「言うたなあ、あのスタンプかわいいやろ」(ワンワンワン)
「それやねんけど……ごめん、梅吉がうるさいから外行こか」(クウン)

家族が一人減っても寂しくないように、と迎え入れた梅吉が、アホほど母の膝の上で踊り叫び狂っていた。家主の膝をボールルームにするな。

のそのそとカフェに移動し、気を取り直して、話を切り出した。

「正直な、パパの思い出ってどこまで話したらええんかわからんかったから、ママからLINEもらってびっくりしたわ」
「なんで?」
「パパが出張したことにしよって言ってたし、そんでめっちゃ元気に見えたから、忘れた方がええんかなあって思って」

カフェラテを飲みながら、母が「あー、ないない」と苦笑いした。

「めっちゃ元気なわけないやん、旦那死んどるんやで、キッツイわあ」
「えっ!じゃあ元気なフリしてたん?」
「うん。最初はそんなんする余裕ないと思っててんけど」

母が言うには、ある手紙を読んでから、元気なフリをするようにしたのだと言う。

それは、父が高校時代に所属していた野球部の先輩からの手紙だった。

父はその先輩をとても尊敬していたらしい。


『ひろ実さんへ。
浩二さんを亡くされて、本当に悲しく、残念なお気持ちと思います。
その苦しさを重々承知した上で、心からのお願いがあります。

葬儀のあと、どうか小さな娘さんと息子さんの前では、涙をこらえてください。

私は子どもの頃、父を亡くしました。
子どもはゲンキンなもので、一年も経つと親の死という悲しみを忘れます。
でも、私がなによりも悲しくて苦しかったのは、
毎日毎日、泣いている母を見ることでした。今でも覚えています。

だから、ひろ実さん。
とてもつらいと思いますが、
子どもたちが元気になるまでは、元気なフリをしてあげてください。』

ぜんぶ覚えているわけではないが、だいたいこんな内容だったと言う。

想像を越えた母の答えを、頼んだコーヒーフロートのアイスが、だらだら溶け出すまで呆然と聞いていた。

「せやから元気なフリしてたん?」
「うん」
「しんどくなかったん?だって、悲しいのを隠さんとあかんかってんで」

母は、うーん、と思い出すように少しだけ考え込んだ。

「しんどいより、ちょっとホッとしてん」
「なんで!?」
「パパいなくなって、私はずっと専業主婦やったし。子どもたちのために、何からしたらええかわからんかったから。あー、まずは元気なフリするだけでええんや!って役割ができてホッとした」
「はー……そんなもんかね」
「子どもたちのために強くならなって思ったら、無敵やわ」

母はひらひらと手を振って、笑う。
ああ。母という生き物は強い。
マジで強い。最強。
子どもを守るという目的のために、こんな風に生きることができるものなのか。

私が将来子どもを生んだら、母のように生きられるだろうか。
ちょっと想像してみたけど、なにも具体的な映像が浮かんでこなかった。
さっぱりわからん。

「中学生の奈美ちゃんと小学生の良太が、私が泣いとるとこばっか見てたらショックやろ?」
「うん、想像したらヤバイ。それだけでちょっと泣けてくる」
「なー。元気なフリしてたら、奈美ちゃんと良太がゆっくり元気になっていったやろ?」
「うん」
「そのあと、セラピーの先生たちと出会って、私もちゃんと泣けるようになってん」

母は私が高校生になった後、心理セラピーの資格をとる勉強を始めた。
そのとき出会った先生に、一年かけて、悲しいという気持ちを吐き出したそうだ。

私たち家族に吐き出せなかった悲しみを、ちゃんとそこで言葉にできたから、今は元気なフリをしなくても心の底から元気になれたと言う。

「家族やと近すぎて話しづらいこともあるしなあ。私の場合、元気な顔を見せられる家族と、泣き言を言える先生や友人がいたから、ここまでこれたんかも」

生きていく上で、とても大切なことを教えてもらった気がする。
コーヒーフロートは結局、ただのカフェオレになってしまったが。

あの「えらいこっちゃ〜」なLINEを、母が送ってくれてよかった。

「あとなあ!言うとくけど家族が死ぬってほんまに大変やから。めっちゃ大変。銀行口座は凍結するし、市役所とか何件も回るし、電気ガス水道ネットぜーんぶ止めなあかんし。もうあんな大変な思いさせたくないから、私の遺骨はハワイの海に撒いてほしい」
「いやどう考えてもそっちの方が大変やし、ハワイ行きたいだけやろ」

うん、と母は笑った。

とても元気そうだった。

この記事は、LINE株式会社のオウンドメディア「LINEみんなのものがたり(https://stories-line.com/)」の依頼を受けて、書き下ろしました。私を見つけて、声をかけてくださり、常軌を逸した褒めて伸ばす編集をしてくださったのは、株式会社ツドイの今井雄紀さんです。

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#あの日のLINE

LINEで使っている岸田家愛用のスタンプはベタックマくんです。

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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。