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救いは、人それぞれ、みにくい形をしている

岸田奈美のnoteは、月曜・水曜・金曜のだいたい21時ごろの投稿です。予期せぬご近所トラブルなどで遅れることもあります。
大部分は無料ですが、なんてことないおまけ文章はマガジン限定で読めます。

日本の空港の軒先で、朝まで眠ろうとしたことがある。

七年前の、夏も近づく六月だったけど、深夜ともなれば吹きさらす風は冷たく、昼のシャトルバスを待つためだけに作られたベンチは狭く、座っているとじわじわ、と体が外側からイヤ〜な感じに固まっていく。

横になれば、もうちょっと楽だったろうけど、「知らない誰かが近づいてくるかもしれない」状態では、5分も横になっていられなかった。

荷物を孵化するヨッシーの卵みたいに抱きしめ、襲われそうになれば脱兎のごとく逃げ出せるようにと考えると、座ったまま眠るのがちょうどいい。

離れた場所にふたりほど、同じように固まって、遠すぎる朝を待ちわびる人たちがいた。

夜なんていつも、スマホで知らん国の知らん土地のGoogleストリートビューでも見てたら、ワイナイナのごとく爆速で過ぎ去っていくのにな。知らん野良犬とか、何時間でも探し続けられるよな。

あれは壁と天井と温かい布団があったから、できたこと。

温かい場所で眠れるなら、愛するあなたのため、部屋とワイシャツと私を毎日磨いてたっていい。ここには部屋すらない。せめてでっかい国際線だったら、夜も室内にいられたんだけどね。僻地の国内線だからね。

眠れずにいると、スマホが鳴った。

いや、パカッとする携帯だったかもしれん。そのへん入り混じった時代だから忘れた。できるだけバッテリーを減らさないように、ポケットの奥底にねじ込んでいたことは覚えてる。

mixi(ミクシィ)の通知だった。

『大丈夫? うち、空港にけっこう近いから、今からでも泊まりにきなよ』

大学で一度か二度しか会ってないが、mixiでは何度もコメントのやりとりをした友人だった。

わたしが数時間前に投稿した「これから空港で野宿する……つらい(;_;)」という日記を読んでの一言。

ひどい匂わせ投稿に、mixi上の知人によりおびただしい足跡(アクセス履歴)がつき、荒れた地面ならば更地に踏み鳴らされているほどだった。いわば友人は、その更地に芽吹いた、希望の一輪花。

わたしの返事は

「ありがとう。しんどいけど、なんとか大丈夫そうやわ」

だった。

なんでやねん。

なんとなく健気で、悲運な少女のエピソードっぽくも読めなくないが、自宅から始発で行けば余裕で間に合う空港でわざわざ野宿し、ここぞとばかりにSNSで匂わせ投稿をし、あまつさえ友人の救いの手を断ったのは、このわたしである。

時空移動できるなら「おまえちょっと落ちついて話そか」と説得してしばきに行きたくなる有様だが、あの時のわたしには、空港での野宿に多大な意味があった。


当時わたしは大学に通いながら、ベンチャー企業の創業メンバーとして働いていた。歩けなくなった母のために、バリアフリーに関わる仕事を作った。

創業メンバーといっても、下っぱも下っぱだ。役職も権限もない。知識も常識も足りないので、上司から言われたことを、粛々とやるだけ。

とても厳しい社風だった。

「学生なのにここまでキッチリやるのか」と、お客さんたちを驚かせ、そのインパクトをもって信用してもらえることが大切だったように思う。

学生がやっていて、しかも研修やアドバイスといった形のない商材の会社というのは、それくらいの努力をしなければ、取引きまでこぎつけられなかった。

会社がひどいというつもりは、まったくない。ベンチャー企業だから、みんなもわたしも、好きでストイックにやってたようなもんだし。


遅刻はもちろん厳禁で、30分前に客先へ到着する。インフルエンザでも、仕事があるなら休まず隠し通す。早朝でも深夜でも、連絡は一時間以内に返す。平日は事務所で泊まり込んで仕事する。年末は仕事を収めをしてから、数日徹夜をして数百人を越えるお客様に一人ずつメール。仕事のたび社員同士で「相手のダメなところ」を書いて知らせ、反省を発表する。だれも助けてくれないし、できなければみんなの前でしこたま怒られる。

社員が増えるたびにさすがにあかんわと変わってきたけど、その時はこんな感じだった。

当たり前っちゃ当たり前なんだけど、大学で単位を取りながら、片道2時間かけて事務所に向かっていたので、完璧にやるのはバカしんどい。

気も利かず、細かいことをキッチリやれないわたしは、毎日バチボコに怒られていた。

怒られると自信をなくし、寝ても覚めても疲れがとれず、また派手なミスをし、負のサイクルに頭から突っ込んでいく。くお〜!ぶつかる!ここでアクセル全開、インド人を右に!


そのうち「不安で朝も起きられない」ようになった。こういう時って「不安で夜も眠れない」じゃないんかい。でも、寝るの大好き!ずっと寝てたい!

あろうことか大遅刻をニ連続でやらかして確変状態に突入し、「次やったらお前ほんまわかっとるなコラァ」ステージが始まった。

運が悪いことに、翌日は東京への出張業務が待ち構えていた。

震えあがったわたしがとった行動は、リラックスして早寝するでもなく、東京へ前入りするでもなく、なぜか空港で野宿を決行するだった。


おいおい、どうした、どうした。
孔明を雇え。


わたしにとって、それが一番

「つらい思いをしてでも、がんばった!えらい!」

と、だめな自分に言い聞かせられる手段だった。


ここで「かりそめがんばりポイント」なる制度を導入し、このまやかしを説明してみる。かりそめのがんばり。


会社からは夜行バス以外の交通費はもらえず、ホテル代なんてもってのほかだったから、飛行機代なんてもちろん出ない。速く移動できる飛行機代を自腹で出したということで、かりそめがんばり1ptを獲得。

野宿は寒くて怖くて、精神をすり減らしていくので、かりそめがんばり2ptを獲得。

始発の飛行機で出張先に向かい、誰よりも速く現地に到着してフラフラでも気丈に振る舞うことで、かりそめがんばり3ptを獲得。


これでようやくわたしは、遅刻をするダメな社会人という己を罰し、その様子を上司たちに伝えることで立派な社会人だと、自他ともに認められるというわけだ。


あかん。



誰か……誰か、止めてくれよ……。
孔明……。


いや、止めてくれてたわ。
母も泣いて止めてたし、友人もmixiで止めてくれた。

だけど、ここで救いの手を取ってしまったら、かりそめがんばりポイントがチャラになってしまう。

他人に迷惑をかけてはいけない。救われてはいけない。だって、こうすることでしか、わたしは、わたしがやらかしたことの責任を、とれないのだから。

刑期を終えないうちに、囚人が外へ出られないように。わたしにとって、このつらさは刑期だった。

だれも刑なんて課してないってのに。

課しているとしたら、それは、わたしだ。
セルフ投獄だ。

自分で勝手に罪を大げさにでっちあげ、それをわけのわからん方法で償うことで、自分の名誉を無理やり回復させようとした。劇場型名誉挽回服役だ。

不幸そうに見える場所に、どっぷり居座るという幸福。


わたしは、ただ、わたしのことを、好きになりたかった。


この時期に、疎遠になった親戚や知人はたくさんいる。

どんどん顔色が悪くなって、目つきが死んでいくわたしを見かねて、あらゆる救いの声をかけてくれた。

「ちゃんと休んで、学業に専念した方がいいよ」「上司に言ってあげるよ」「そんなところ辞めて、うちにおいでよ」

あろうことかわたしは、それらをバッサバッサと関羽のようにはねのけた。


こんなわたしのためにありがたいなあと思う一方で、

「ほっといてくれ、邪魔せんといてくれ」

と、鬱陶しくも感じた。完全に終わっている。なるべくして、疎遠になった。


わかろうとされることが、わかるよと歩み寄られることが、つらかった。

本当は、わかってほしいのに。

だけど、この苦しさを、簡単にわかってほしくないのだ。

母が歩けなくなって死にたいと思いつめ、ほかに頼れる親戚はおらず、大学で座って勉強するだけでは不安になり、力ずくで母のために行動できる会社に入り、自腹の経費が給与を上回るなかで朝も夜もなく暮らし、身の丈に合わない仕事でに喘ぎながらも、ここにしか居場所が作れなかった苦しさを。

それがすべて、恵まれているわたしには他の道もあったにも関わらず、好んで選んだ道の、自業自得の苦しさであるということを。

誰にも、わかられたくない。わかられたら、わたしの歩んできた過去が、ありふれた陳腐なものに成り下がってしまう。気がする。

わかってほしいけど、わかってもらえないと悲しみと怒りにかられて八つ当たりしているくらいが、ちょうど心地よかった。なにかに嘆いて、なにかに怒り続けている方が、自分は傷つかなくて済む。


あかんって。(二度目)



このあかんすぎるわたしにとって、救いの手は、もはや救いではなかった。本当は救いなんだけど、救いだと認めたくなかった。

わたしにとっての本当の救いとは、ここで他人に助けられて穏やかに過ごすことではなく、無茶をして、一人で頑張り続けて、無念に倒れることだった。

わかりやすい病名や怪我名がつくならば、なお良い。

そうしたら「必死で頑張ってるのはわかったから、もう頑張らなくていい」という、いびつな免罪符を得られる。

そのときはじめて、わたしは、わたしのことを許せる。これだけ頑張っても無理だったんだから、という甘い許しを得られる。

結局、23歳のときにわたしは心をぶっ壊し、二日失踪したあと、豪雨で氾濫した川を何時間もぼうっと眺めているところで気を失い、目が覚めたら病院で点滴につながれていた。

母が泣いて泣いて、指の先まで震えていた。

「無断欠勤してるって聞いて、あなたが首でも吊って死んでたらと思うと怖くて、会社の人が来るまで家に確かめに行けなかった。ごめん、ごめんね」

本当に愚かなことをしてしまったと、ようやく気づいた。

これにて劇場型名誉挽回服役の幕は降りたかと思えたが、結局のところ、根本的なことは解決しなかった。会社でも特に立場が変わることはなく。これといって、成長もせず。

このやり方は間違っていた、と心の底から思い知っただけだ。

催眠や呪いの類が、あっさり解けただけ。ゼロからのスタート。

わたしが、ポンコツなわたしのことをそれなりに認められたのは、それからたっぷり五年くらいかけて、自分のことを好きでいられる人と場所を、ゆっくりと見つけていったときだ。


救いは、人それぞれに、みにくい形をしている。


他人にとっては不条理で身勝手きわまりないから、醜い。

自分にしかわからない時と場合であるから、見にくい。


「よかったら、うちに泊まりなよ」


パッと見て救いのそれを、「ありがてえなあ」と受け取れる日もあれば、「邪魔せんといてほしい」と受け取れない日もある。もっとひどい時は「見下さないでよ!」と、とんでもない妄想に陥る。

他人からの救いを受け入れられるかどうかは、自分だけが決める。

健康やお金に余裕がなくても、心に余裕がなければ、救いを受け取れない。受け取らないことこそが、救いだと思い込んだりする。

自分が救われてもいいかどうかを決めるのは自分であって、他人ではない。他人に救われることがはあっても、その前に、自分を許すという果てしない作業からはじまる。

世界の神ですら彼を救う権利を欲しがったとしてもだ。ちくしょう、わたしが言いたいこと、だいたいBUMP OF CHICKENが言っとる。


だからって、だれも救わない世の中がいいとは、まったく思わないし、救われたいと思った時に救われたいので、わたしは、こうすることにしている。

困っている人を見つけて、自分がなにかできると思ったら、できるだけ迷わず声をかける。

でも、期待をしない。
自分が救いになるという高慢さを棄てる。
救えるのは自分だけ。
声をかけたいから、かけるのだ。

いらないとはねのけられたり、疎遠になったりしても、がっかりしない。ましてや、怒らない。今はまだ、その時ではなく、その形ではないだけだ。

扉の鍵を外し、入ってくるか、違う扉を見つけられるかを祈って待つ。

もちろん、そんなこと言うてられずに、引っ張り出さないといけないってときもある。命を守るためとか。冬に空港で野宿してたら、死ぬかもしれんから。

それはすべきだけど、恨まれるかもしれないという前向きな諦めは、持っていたらいいと思う。心優しいあなたが、潰れてしまわないように。手を振り払うということすら、救われるための小さなきっかけになることもあるから。


つってね、なんかいい話っぽく書いたけど、書けば書くほど、空港で野宿してた自分をひっぱたきに行きたいね。オラッ!立て!さっさと牛丼食って帰るぞ!


ここから先は「キナリ★マガジン」の読者だけが読めます。わたしはこれで生計を立てているので、購読していただいたお金は、なんと岸田家の生活費に計上されます。たまに外で焼き肉などを食べます。おまけのほか、毎月「小説現代」で連載しているエッセイも読めます。

ちょっと、お恥ずかしいものをお見せしてしまうので、片目を閉じてほしい。最後に、おすすめの本も紹介したよ。

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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。