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ビジネスホテルの旦那は、旦那より旦那

最初に言っておくが、下世話である。
これは下世の話である。

大切な仕事があるので、三泊四日で東京のビジネスホテルに泊まった。

最終日のテレビ朝日の配信出演にあわせ、場所は六本木を選んだ。

21時30分くらいにホテルに着き、慣れないアレやらコレやらで、へっとへとのへとになった体をシングルベッドに沈ませたところだった。

「あんっ……!」

あまりの体の重さにベッドフレームが喘いだかと思ったが、喘いだのは確かに女性だ。

ぴと、と左右の壁に耳をつける。なにも聞こえない。

ドアに耳をつける。
ここだけどうにも、耳に伝わる音の感じが違う。

「あっ、あんっ」

聞こえた。
向かい側の部屋だ。

ゼルダの伝説ならばここに爆弾を置くと隠された道が開くのだが、悲しいかな伝説ではなくこれは実話。ゼルダの実話。

TUBEの歌はどこで聞いても最高の夏だが、喘ぎ声はいつどこで誰と聞くかによって最高にも最低にもなる。

これがねえ、高校の修学旅行とかだったら、アホなのですぐさまお互い顔を見合わせ、二学年先くらいまで語り継がれるちょっとした祭りになるところですけれども。

今のわたしは、仕事を終えて、へとへとなのである。ビジネスをしてホテルに泊まっているので、他人のあんあんなど聞きとうなく、静かに寝とうございます。母が同行していないだけ、最“低”はまぬがれてはいるが。

「あああああああっ!あんっ!あんっ!」


寝れるわけがない。

もう壁に耳をつけるまでもなく聞こえとる。
息づかいやベッドの軋みまで、すべて響き渡っとる。あえぎのオーケストラ。

落ち着こう。
疲れたときこそ、おおらかに。想像力を使おう。

この女性も、お相手も、ビジネスを終えてのひとっ風呂ならぬひと逢瀬かもしれない。いや待てよ。この行為すらも、ビジネスの真っ最中かもしれない。人の体力は有限だ。わたしがいっそ風呂でも入っていれば、そのうち。


「あんっ!あんっ!手が……んっ、手がっ、何本……っ?手が……何本!?」


なんて?


吹きすさぶ風の音なら慣れてしまえば無視できるが、言葉が乗った瞬間に話が変わってくる。わたしたちのよくできた耳と脳は、メッセージを受け取ろうとしてしまう。

手が何本?というメッセージを耳が受けとってしまい、脳へ届いたころには大混乱を巻き起こしていた。

疲れで……聴神経の検閲が……検閲が機能していない……!

深く考えたら今夜の情緒が終わる気がするので、フロントに電話をしようかと考えた。キャビネットの上に備えつけられた受話器を見る。わからない。こういう時、なんと伝えればスマートなのかがわからない。そんなの、義務教育でも社員研修でも教えてもらわなかった。教わりたかった。

そのときだった。


「旦那より……旦那ァ―っ!」


なんて?


わたしの知能が高いばかりに、ありとあらゆる関係性のifが脳裏に描き出される。しかしそのどこにも、「旦那より旦那」と辻褄が合うシチュエーションが思い当たらない。

江戸っ子は、相手のことを「旦那」という。
旦那ァ、調子はどうでい、どうでい。

「旦那(夫)より、旦那(あんた)がイイ」

これか。
これならなんとかなる。
なんとかなったところで、なにがどうなるというのだ。

辛抱たまらず、わたしはカードキーをサッと抜き取り、外へ出た。

ガチャッ

同じタイミングで、隣の部屋からも人が出てきた。
どことなく、疲れた感じのあるシャツにスラックス姿のおじさんであった。

向かい側で喘がれている社会人同士の奇跡の邂逅だが、それも凄まじい喘ぎ声が許さない。わたしたちは無言でエレベーターホールへ向かった。

22時を回っていた。
今の東京では、もうどこの店もあいていない。

最上階にドリンクコーナーという表示があったので、逃げるようにボタンを押す。おじさんも考えていることは同じだったようで、しばらく、沈黙がエレベーター内に流れる。

「やばいっすね」

わたしがぽつり、と言った。

「……いやあ、やばいっすねえ」

おじさんが苦笑いで返した。

やばいっすねだけで会話が成立してしまった。

戸惑い、哀愁、怨恨、失笑のすべてがまんべんなくまぶされた、「をかし」に匹敵する趣の言葉である。夏の季語にしよう。

ぺた、ぺた、と二人で紙製のスリッパを鳴らしながら、自販機の前に立つ。


酒しかなかった。

ホテルが、酒の力で聴覚を紛らわせ、と囁いている。そうすればもう、なにもかも Come on!の境地にいける。

わたしは酒が一滴も飲めないので、憩うに憩えず絶望した。

せめておじさんだけはしっぽりやってくれ、と場所を譲ったが、おじさんも自販機を一瞥するだけで踵を返した。あんたも飲めへんのかい。

わたしは部屋へ、おじさんはエントランスの階へ向かい、それきりだった。

わたしがボタンを押すとき、セキュリティーカードをタッチし忘れたので、

「その階には行きません」

と流れるアナウンスが「その階ではイキません」に聞こえてもう、何もかもがもうしんどい。

おじさん、行かないで。わたしを一人にしないで。無情な別れのあとには、聞き慣れた喘ぎ声だけが響いていた。


昔付き合っていた、大手リゾートホテルのドアマンを務めていた彼氏から、教えてもらったことがある。

「常連さんでも『いつもありがとうございます』って、お迎えしたらだめなんだよ」
「なんで?」
「一度目は夫婦で来たけど、二度目は愛人と来たのかもしれないから。俺、一度うっかり言っちゃって、『いつもって誰と来たのよ!』って目の前で取っ組み合いになったことがあって」
「はっはあ」
「俺の経験上の話だけど、チェックインの手続きでもにベタベタ&イチャイチャしてる人は、愛人とか不倫相手っていうのが多かったなあ」

あとにも先にも、わたしが付き合っている間、彼がうんと楽しそうに話していたのはこの時だけである。どんな関係性なんだ。

なんでそんなことを思い出したかと言うと、このホテル、チェックインの時からお互いの腕にまとわりついている人間が多かった。エレベーターも、なんというか、「ネチョい(友人の佐伯ポインティから教えてもらった、こういう時に使える言葉)」雰囲気で満ちていた。カップルは異性とは限らない。

もしかしたら、あの人も、その人も、この人も。
ここでネチョくないのは、わたしと、隣のおじさんくらいなのでは。

疑心暗鬼になり、やり場を失ったこの気持ちを、ツイッターのタイムラインに逃がした。

途端に港区近辺の経営者の知人たちから連絡がくる。

「あのホテルね。俺もサウナだけ一人でよく入りに行くよ!」

などとただの聞いてもねえ世間話に過ぎないのだが、わたしの心はもうネチョスに覆われているので、保険の立ち回りに見えてくる。ツイートが伸びると、今度は港区の裏アカ女子たちがホテル名を当てにくる。六本木の夜。

翌朝。

昨日の喘ぎ声が嘘のように、ホテルは静まり返っていた。入りそびれた露天大浴場に向かう。

まだ7時なのに、先客が5人もいた。

この中に、抱かれた女も抱いた女もいると思うと、なんだか悔しい気持ちになった。

ふと、忘れ物コーナーを見る。

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アス……プレイ……?

オイオイオイ、とメッセージ性を疑ってしまったが、ちゃんと調べたらアスプレイは英国王室御用達のラグジュアリーブランドであった。真に申し訳ない。もうわたしの知性が終わりかけている。

だが、これはザ・リッツ・カールトンの客室から持ち帰れるアメニティだと知ると、この中にリッツで抱かれた(抱いた)女がいる……とさらに的外れな悔恨の念にかられる。一度はリッツで抱かれたい。

ビジネスホテルのタタリ神とはわたしのことである。

露天風呂に足を踏み入れた。

一糸まとわぬスッポンポンで、どの女もみな、露天風呂の風に吹かれながら呆けている。抱かれた女も、抱いた女も。みんな同じ朝日と東京タワーを見ている。

それだけで、なんかもう、どうでもよくなってしまった。


人は肌のぬくもりを求める。

許される抱擁も、許されぬ抱擁もあれど、それだけは太古から変わらぬ人々の願いであり、祈りである。

タタリ神は浄化された。喘ぎ声がどうだ、旦那がなんだと騒いでいた自分を恥じた。


人は、なぜ喘ぐのだろう。


生物としては、一番無防備な状況で敵に居場所を知らせるなど、避けたい行為であるというのに。

それでもわたしたちは、世界に伝えたいことがあるのだ。喘ぎは声にならないメッセージといえる。

不覚にも涙が出そうになりながら、チェックアウトをする。

「昨日はお客さまのフロア付近に騒音があったとのこと、大変申し訳ありませんでした」

フロントのお姉さんが深々と頭を下げた。
なんでそれを。
わたしは唖然とする。


この下世話な文章を、あの夜、意を決したようにフロント階へ向かった名も知らぬおじさんの勇気に捧ぐ。



※いつも応援してくださってる人向けのしょうもないおまけ「ドアマンから教えてもらったこと」

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