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キナリ杯をはじめようと思った、ほんとうのこと

とりとめもないことを、とりとめもなく一度で書きます。

性格が悪かったり、とつぜん話が変わったり、よくわからなかったりする、ひとり言です。

でも、ぜんぶほんとうの話です。


おもしろい文章は、才能と自尊心

キナリ杯で募ったのは「おもしろい文章」です。人が集まり、夢中になり、いい対話が巻き起こる文章です。わたしはそれを仕事にする道を選びました。


だけど、おもしろい文章なんて書かなくてもいいんです。それは大半の人にとって、生きていくために必要がないことだからです。

書くことがつらくない人、書かなければ生きていけない人だけ、書いたらいい。

おもしろい文章を書くことで「他人から認められ、自分を満たしたい」「おもしろい自分になりたい」って、そんな風に思う人ほど、こんなにも苦しいことはしない方がいいです。

おもしろい文章を書くというのは、途方もなくしんどいことです。書くのもしんどいのに、読まれなかったらもっとしんどいです。


たまに「自分の経験を書くことで、誰かが元気になってほしい」「誰かに共感してもらうことで、救われてほしい」というために、書きたいという人がいます。

優しさを否定しませんが、文章で他人をどうこうするなんて、まったくのファンタジーです。そんなことができるのはヒプノシスマイクだけです。あれはラップが精神に作用して攻撃できるというすごい設定なので。

なぜなら、人と人は永遠にわかりあえないから。頭で考えてることなんて、外に出した瞬間に20%も伝わらないし、それすらも寸分の違いなく受け取れる人なんて、1人もいないんです。

「共感した」「救われた」というのは、読み手が勝手に解釈して決めることであって、それを書き手側がコントロールすることなんて、絶対にできない。


じゃあ、なんのためにおもしろい文章を書くのか。

すべては自分のためです。


わたしはたった28年間の人生で、心がバキボキに折れそうになるほど、つらいことがありました。特に亡くなる父との最期の会話が、ひどいケンカだったことは、これから先も、胸の奥にドス黒い染みとなってこびりつきます。思い出す度に、心臓と肺のあたりが針で刺されたようになります。

生きていくためには、記憶を再編集するほか、なかったんです。わたしにはこれしかなかった。

悲しい記憶の中から、笑った記憶を探り当てて。何気ない言葉や行動に、味つけするように意味を付与して。そうして書いたのが「弟が万引きを疑われ、そして母は赤べこになった」「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」です。

そうすれば、記憶が別の意味を持ち、わたしの中で永遠に名前をつけて保存されるわけです。


ほとんどの場合、おもしろい文章を書くっていうのはそれなりの苦しみが伴います。それは時間であったり、羞恥であったり、悲しみであったりします。人が抱える「傷」にこそ、おもしろさを見出すのが人だからです。

こわい言葉をあえて使うなら、それは生きるための自殺です。首をしめていく行為にも近い。


そんなつらいことを、誰が他人のためにできますか。自分のためにしかできません。


文章は、灯台にはなれない。迷っている船の道標にはなれないし、暗い海の底を照らすことはできないし、街の人から感謝されることもない。

せいぜい、ランタンです。

自分がこれから向かう暗闇で、寂しさをやわらげるための。

ぼうっと見つめて、過去を思い出して癒やされるための。

足元を照らして、いま自分がどこにいるのかを確かめるための。


だから、そんなランタンで誰かを救おうなんて思っていた人は、それで救えない自分に嫌気がさしている人は、おもしろい文章なんて書かない方がいいんです。


おもしろい文章でなくたって、いいじゃないですか。

メールや手紙は書き手の気持ちと情報がシンプルに伝わればいいし、平凡な文章もあなたと親しい家族や恋人や友人に向ければ特別な意味を持つ。それでじゅうぶんです。


それでも、ランタンに火を灯し、痛みを伴いながらもおもしろい文章を書く人は、なにが違うのか。

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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。