
[短編小説]リビングデッド・スイマー(Halo at 四畳半)
この小説は、わたしが学生のころフェスで出会ってしまったHalo at 四畳半というロックバンドが好きすぎて、曲を聴いて、勝手に書きました。しーらいさんだけは書くこと知ってましたが、完全な非公式オタク芸です。
もはや読まなくてもいいので、Halo at 四畳半を聴いてください。頼む。無色透明の歌声と演奏から光速で紡ぎ出される、鮮やかすぎる物語のような歌詞が最高すぎて、語彙力を失います。日曜日に彼らのYoutube Liveに出演させてもらうことになりました。語彙力を失ったのでなにも話せません。
8800文字なので、15分ほどで読めます。
「おはよう、天才くん」
声がして、目を覚ます。
開け放した窓から入り込んできた生ぬるい風は、ほのかに線香の香りがする。けやきにしがみついた蝉が歌う。入道雲は青すぎる空にふくらみ、境界線を引くように飛行機が過ぎ去る。
ぼくはそれを、四畳半から逆さまに見上げていた。
「じゃあ、これ読んで」
重たい身体を起こす。窓とは逆方向に顔を傾けると、声の主がいた。
丸いメガネをかけて、黒いスーツを着込んだ、無愛想な男だ。
手渡されたのは、3枚の薄っぺらい紙。
驚くことにすべて、紛れもない僕の字だった。
なぜ驚いたかと言うと、まるで書いた覚えがなかったから。
「それを読んで、なにか聞きたいことはあるか」
読み終えて、僕は男を見つめる。
「あなたの名前は」
男は困ったように爪の先で頬をかいて、そのまま人差し指を紙へと向けた。
「それも書いておいてくれ。次から聞かなくて済むようにな」
蝉の声が途切れた。
男は「葬儀屋」と名乗った。
「それは名前ではなく、職業じゃ」
「名前より覚えやすいから良いだろう」
彼は口の端をつりあげ、メガネの奥の目を細める。それ以上、深入りは許されなかった。
ぼくは仕方なく、男のことを葬儀屋と呼ぶことにする。
「なんて書いてあった?」
「19歳、男、東京都世田谷区在住、高校中退、小説家」
紙に書かれている文字を読み上げる。
なかでも、ひときわ大きく書かれていたのは。
「知名崎 一星(ちなざき いっせい)」
どうやらぼくは、そういう名前の人間らしい。
「これが本当かどうかも思い出せないんですが、どういうことですか?」
「168回目」
葬儀屋はミネラルウォーターの入ったペットボトルから口を離して、言った。
「その質問はもう168回目だ。その次は『クーラーつけませんか』って言おうとしたろ」
頭の中を当てられて、ぼくは唖然とする。
「そんな贅沢なものはない」
後ろ手で準備していたうちわを、投げてよこされた。
とらえようのない不安も、目の前のうさんくさい男に対する疑心も、なんだかどうでもよくなってしまった。
この暑さを前にしては、さっさと諦めて受け入れた方が疲れないと悟ったのだ。
168日目
紙の続きには、こう書かれていた。
僕の記憶は、24時間ごとにリセットされる。
ここに来るまでのこと、ここで過ごしたこと、どちらもぼくは覚えていない。少なくともこの四畳半で、最低限の生活を送るに足りる知恵だけは、失っておらず救われた。
「何回も同じことを尋ねられちゃ、かなわないからな」
やっかいな現象の説明を含めて、僕という人間のなんたるかと、四畳半であった出来事は、すべて紙に記されていた。
一日ごとに、一枚。
昨日のぼくは、今日のぼくのために日記を書いているようだ。
「ぼくには家族がいないんでしょうか」
「なぜそう思う」
「ここには家族のことが書いていないから」
「知名崎家は、父親、母親、妹とお前の四人だな」
「ああ、よかった」
なにがよかったんだろう。
家族という一番近い関係性を、どこか他人事みたいに聞くのは不思議な感覚だった。
「でもお前以外はみんな死んじまったよ。車の運転中、土砂崩れに巻き込まれてな」
四畳半が静まり返った。
「ショックで声も出ないか」
「いいえ。ぼくには家族の記憶もないので、最初からないものに対しては、そんなに」
悲しいような、寂しいような、胸の奥がわずかに絞られるような感覚はあった。だけどこればかりは、どうしようもない。
ぼくは乾いたくちびるを開く。
「なにか飲むものってありますか」
葬儀屋が台所から持ってきてくれたのは、二本の瓶入りサイダー。銀色の王冠を外したあと、葬儀屋は窓の外を眺めていたので、ぼくもそれにならった。
飛行機が去ったあとの空は、色紙みたいに真っ青だった。
だからこそ、葬儀屋の黒いスーツとのコントラストが目に余る。
どうしてそんな暑そうな服を着込んでいるのか。
聞こうとして、それは喪服であることに気づいた。
「葬儀屋さんは、なぜここにいるんですか」
「お前の両親に頼まれたんだよ。ひとり遺してしまう息子に、さみしい思いをさせないようにってな」
「普通そういうのって、親戚とかに頼みませんか」
「知らねえよ。お前んちの親戚づきあいなんか」
「じゃあぼくの両親はいつ葬儀屋さんと知り合って、頼んだんですか」
「俺の仕事は、しばらくお前とここにいること。それ以上は答えない」
ぼくに、さみしい思いをさせない。
美しい口上のように聞こえるが、おおかた後追い自殺をさせないように、見張っているんだろう。
日記を読むと、彼はずいぶん長く、ぼくとここにいるようだ。
お金は一体どこから出ているのか、いつ終わるのか、聞きたいことはたくさんあったけど、葬儀屋の様子を見る限りは受け入れるしかない。
「俺の誤算は、お前の記憶が期限つきになってしまったこと。記憶がもとに戻るまで、お前につきあわなくちゃいけない」
「戻るんですかね、これ」
「ほとんど毎日、いつも同じことの繰り返しだがな。俺の名前をたずねたのと、なにか飲みたいって言ったのは今日が初めてだ」
「ということは、少しずつぼくの行動が変わってきてるってことですか」
「ああ。もう一度話すのは面倒だから、知ったことは全部書いておけよ」
「家族が死んだって話は、どうしましょう」
「書きたいなら書け。ただ、昨日までのお前は書かなかった。なぜかはわからないが、明日のお前のためにそうしたんだろう」
明日のぼくのために。
ぶっきらぼうに投げつけられた言葉を、咀嚼する。
葬儀屋が煙草を吸いながら、視線を移す。
その先には、紙が無造作に重ねて入れられている段ボール箱。
ぼくは、繰り返される今日という日を、そこへハラリと入れた。「その煙草、線香の匂いがしませんか」
「吸うか?」
首を横に振る。
夏の風は、ほのかに線香の香りだった。
230日目
ぼくの一日は、正午からやっとはじまる。
午前中の時間はすべて日記に目を通し、記憶を取り戻すのに費やさなければならないからだ。
「まるで夏休みの宿題みたいですね」
「最初のころは一時間もしないうちに終わってた。枚数が増えていくとそうなるよな」
「せめていらない紙は捨てて、減らしてもいい気はしますけど」
「じゃあ捨てろよ」
「どれがいらない紙なのかわからないんですよね。『外にいるのはアブラゼミじゃなくてミンミンゼミ』って、この記憶は必要なのかなあ」
日々を重ねれば重ねるだけ、紙の枚数は増える。読むべき記憶と、それに費やす時間も増える。
記憶を意図的に捨てるというのは、すこし戸惑う。
「お気の毒だな」
「他人事だと思って、ひどくないですか」
「まぎれもなく他人事だ」
畳に寝転がって足を組みながら、葬儀屋はあくび混じりに言った。
「このまま増え続けて、自由時間が夜だけになったらどうしよう」
煮え切らないぼくに、葬儀屋はフンと鼻を鳴らした。
この部屋にはクーラーもテレビもない。
葬儀屋が持ち込んだ古めかしいラジオによると、今年の最高気温を更新したそうだ。
めぐりめぐっていく季節のなかで、僕だけが置いていかれる。
「外に行ってきてもいいですか」
葬儀屋は、わかりやすく顔をしかめた。
「この街のことも思い出せないだろ」
「ええ、まあ」
「道も知らないのに、どうやって帰ってくるつもりだ。犬かよ、お前は」
「なんとかなりますよ」
「一人で歩かせるわけにはいかない」
「じゃあ、ついてきてください。そのためにあなたがいるんでしょう」
葬儀屋がくわえていた煙草から、ぽろ、と灰が落ちる。
見開かれた目を見ると、昨日までの僕は食い下がらなかったことが明白だ。
「ぼくは小説家だったんですよね」
一瞬言葉を詰まらせた葬儀屋は、すぐに口を開いた。
「新人賞、文化賞、直木賞……。弱冠19歳の天才、知名崎一星は文字通り、文壇にかがやく期待の新星だった」
「それで最初、ぼくを天才くんって呼んだんですね」
「嫌味だ」
「知ってます」
ぼくは、意識を自分の頭のなかへと集中させる。
「次から次へと、ぼくの中に言葉が浮かんできて苦しいんです。まだほかに書きたいことがある。でも、まだそれがなにかわからない。この四畳半だけで消化するなんて無理です」
さっき、ほこりだらけの本棚に収まっていた文庫本を読んだ。
段ボールの底に眠っていた、古い文芸誌の切り抜きを読んだ。
作者名はすべてぼくになっているけど、そこに並ぶ文字の羅列は、どれもいまのぼくを満たしてはくれなかった。
「僕は行きたい。生きてみたい。まだ知らない外の世界を」
煙をいっそう深く肺に吸い込んで、葬儀屋は溜息をついた。
「人があまり出歩かない、夜だけなら」
230日目、夜
夜空に二酸化炭素を吐く。
湿った空気がそれを洗っていく。
「思ったよりも、感動はないですね」
「帰るぞ」
「待って、うそです、ごめんなさい。感動はないけど、悪くもないです」
静まった暗闇にざわめく公園の遊具。
水面がゆっくりと波打つ、止まった噴水。
ぼくの白いスニーカーは、引力を嫌うみたいに小さく跳ねる。
まるで月面の宇宙飛行士みたいだ。
夜の街には、僕と葬儀屋だけだった。
すべてが初めて見る景色だからだろうか。
街には光があふれて、すべてが眩しく映った。
「ぼくの名前、一星って、なんで名づけられたんでしょう」
「さあな。夜に生まれたんじゃないか」
空を見上げる。星が瞬く。
ここからの距離は、想像を絶する数の数字が並ぶ。
天文学的数値とは、よく言ったものだ。
僕という星の軌道が、誰かのそれと重なる。
そんなのは偶然中の偶然で。
人の奇跡的な出会いというのは、孤独と紙一重だ。
そんななかで自分の記憶とすら出会えないぼくは、この星の遺失物のように思える。
「本当に記憶を取り戻したいと思うか」
葬儀屋が言った。
「俺はこういう死にまつわる仕事をしていると、たまにお前のことがうらやましくなる」
「なるほど。知るべきことが多いと、苦しくなることもあるんですね。記憶はリセットできるくらいがちょうどいいのかも」
「前向きだな」
星みたいに、無数に浮かび上がってきた言葉を舌の先に乗せる。
意味のない言葉の羅列になり、詩になり、やがて歌になった。
ひととおり歌ってみたものの、ぼくは笑い転げた。
「ぼくって歌はヘタなんですね」
「俺もいま初めて知ったよ」
「でもいいや。書くより、歌いたい気分だ」
ひどい音程だった。
ここは住宅街のど真ん中だから、誰かから怒られると思ったけど、不思議と街は静かなままだ。
葬儀屋が笑う。
ぼくのすべては、ひどい音程で、夜に溶ける。
歌った言葉は、もう覚えていないけど。
歌ったことだけは、書き留めておいた。
これから行く先に、なにがあるともわからない。このまま眠れば、ぼくは、二度と今の僕に帰れない。
それでも僕は、僕を残したい。
夜の街を、確かに存在する両の足で泳いだ。
ぼくはその日から、日記のあとに、物語を書きはじめた。
ずっと前から、書きたかったような気がする物語を。
365日目
日もすっかり暮れたころ、ようやく日記を読み終えた。
ぼくはこの夏に一度だけ、外へ出たことがあるらしい。
「夜だけならいいんですよね。今日も行きたいです」
「だめだ」
葬儀屋は許してくれなかった。過去のぼくと、今日のぼくの違いは、一体なんなんだろう。
24時間でリセットされる、ぼくの記憶。
どんな綺麗なものを見たって、心がぐらりと動いたって、ぼくはこの四畳半から見下ろせるどの奇跡にもつながれない。
いまのぼくは、単なる点だ。圧倒的な孤独を思い知る作業も、ようやく終わる。
「葬儀屋さん、あなたの仕事をもう一度教えてください」
「なんだよ。そこに書いてあるだろ」
葬儀屋は、段ボールに山となった紙を顎でしゃくる。
黙ったままの僕を見て、しぶしぶ説明を始めた。
「亡くなった人間の未練を引き受けて、最後まで見守ること」
おおむね、日記に書いてあったことと違いはなかった。
きっと葬儀屋は、最初から嘘などついていなかったんだろう。
大切なことを隠すのと、嘘をつくのは、微妙にちがう。
「そうですか」
窓の外を見た。ここから広がっていく青い空が、ぼくはずっと前から好きだったような気がする。
「本当はもっと前から、わかっていたのかもしれません。でも、ぼくは、今日のぼくのために書かなかったんだと思います」
「なぜだ」
「楽しかったんでしょうね、ここにいるのが。そして物語を書くのが」
葬儀屋は、なにも言わない。
「本当に死んだのは、家族じゃなくて、ぼくなんですね」
聞こえるはずもない心臓が、早鐘を打った。
葬儀屋の顔がゆがんだから、ぼくはそれが真実だったのだと確信した。
「なんで気づいた」
「こんなにたくさんの日記があるのに、食べたものについてはほとんど触れられていない。そういえばぼく、喉は乾くけど、お腹は減らないんです」
「そうか」
「あと、夜中に街中でずいぶん歌ったって書いてあるけど、怒られたとは書いていない。それってぼくの存在が認知されてないからかなって」
「それだけで確信したのか」
「いえ、確信したのはさっきの葬儀屋さんの顔を見て。正直、思いつきで鎌をかけたようなものです」
唖然とした葬儀屋の顔を見て、彼がすこし後悔しているのがわかり、苦しかった。
「でも、いろいろと思い出してきました。なぜか両親のことは思い出せないけど、妹のことは、すこしだけ」
葬儀屋はだまっていた。なぜか少しだけ、寂しそうだった。
「葬儀屋さんの仕事は、ぼくを葬ることだった」
「……ひどい状態だったよ、死んだときのお前は」
消え入りそうな声だ。
「人は死を自覚して、受け入れると成仏するんだ。でもお前は、死ぬ間際まで精神がぐちゃぐちゃに錯乱してて……死を自覚するどころか、自分が誰であるかの記憶すら失って、この世に留まっちまうことが明白だった」
ぼくは葬儀屋に、お礼を言うべきなのだろう。
こうしてぼくがぼくを取り戻すまで、ぼくが物語を書き終えるまで、何度も今日という日をやり直させてくれたのだから。
「どうしてぼくの記憶は24時間でリセットされるんでしょうか」
「俺が消していた。寝る前に、薬を混ぜた煙を吸わせて」
葬儀屋がスーツのポケットを叩く。紙の煙草が擦れる乾いた音がして、ぼくは驚く。
「意外とアナログなんですね。死神ってもっと、魔法とか使わないんだ」
「死神じゃない。死んでいる人が見える、ただの人だ」
「ごめんなさい」
「これでもバレないように気をつかったんだよ。お前の前で何度も煙草を吸ってな。禁煙してたのに」
「そこまでして記憶を消す必要があったんですか」
「今日みたいに、まともに話せてる状態が奇跡なんだよ。いつもは……夜になると、お前は手に入れた記憶が頭の中で暴走して、ひどく錯乱していた」
「ぼくがですか」
「死んだ人間がまともな状態で、この世に留まるのは大変なんだ。記憶の器になる脳だって、生きてる頃と勝手が違う。ちょっとした反動で壊れちまうんだ」
「壊れる前に、まっさらな状態へリセットしてくれたんですね。やっぱりぼくは、あなたにお礼を言わないといけない」
ぼくは立ち上がる。
持っていた紙を手放す。
ぼくをぼくたらしめる材料だったそれは、ばさり、ばさり、と一枚ずつ風に舞って落ちていった。
「ひとつだけ教えてください」
「なんだ」
「どうして僕に、そこまでしてくれたんですか」
「生前のお前に助けられたことがあってな」
「律儀なんですね」
ぼくの素直な言葉に、葬儀屋の肩が揺れた。
「ぼくの妹は元気でしょうか」
「さあな」
「もう終わりなんだから、それくらい教えてくださいよ」
「ここのところお前につきっきりだったんだから、わかるわけないだろ」
葬儀屋は、真っ黒のネクタイを緩めながら、視線を下げた。
「でも、まあ、一度くらいは様子を見に行ってやるよ」
「よかった」
窓を開ける。
目前に広がるのは、見慣れた青空ではなく、あの日の夜空だった。
「気をつけてな。あっちでは好きなもんを好きなだけ、書けるといいな」
「はい。でも、ここでも、好きなものを好きなだけ書けましたよ」
手元に残った、日記じゃないことを書いた紙ばかりを数枚、葬儀屋に託す。
背中に、晩秋の風を受けた。
「ありがとうございました」
聞こえたか、わからない。
振り返らずに返事をして、ぼくは踏み出した。
涙が出そうになりながらも、奇妙な日々を笑ってみる。
今日読んだ一枚目の紙には「目の前にいるその男は、あやしいけど、悪いやつじゃない」と書かれていた。
孤独であっても、だれかを信じて消えていくのは、存外に悪い気分ではない。
ぼくは、この世界でふたたび見つけた懐かしい言葉たちを、薄れる意識のなかで探しはじめる。そのどれもが、紛れもない奇跡だった。
奇跡のために、この身に起きた悲劇すらも身にまとって、泳いでいける。
最後の夜の、最後まで。
エピローグ
知名崎一星の葬儀は、北海道の実家で行われた。
俺は故人からもっとも遠い端の端で、正座していた。
大勢の喪服の肩が小刻みに震えるのを、後ろから眺める。
「あの子のような天才を、この若さで失うなんて」
名前も知らない、大人たちの声が聞こえた。
ここにいると、思い知る。
小説家ではない知名崎一星について、俺はなにも知らなかったことを。
気の遠くなるような夏の日々を越えて、彼のすべてを知ったとは思わない。
ただ彼の人柄と才能が、多くの人に愛されていたことだけはわかる。
しかし、その愛を知るほどに。
16歳に満たない彼を、天才だの神童だのと囃し立て、信頼できる人間が誰もいない東京へと連れ出した大人の身勝手さも思い知る。
彼のことをよく知らない人ほど、彼を愛すことは簡単だ。
現に彼が一番長い時間を過ごした親は、おそらく、彼を愛してはいなかった。
「持病はなかったんでしょう。どうして急に心臓発作なんて」
「救急車が到着したころには、もう亡くなってたって」
「立て続けに作品を発表していたから過労だったんだろう」
「週刊誌で読んだけど、ひどいプレッシャーを抱えていたみたいよ」
「自分が書きたいものより、売れるものを書かされていたらしいな。ろくに眠れていなかったんじゃないか」
「聞けば、出版社との契約もひどいものだったって言うじゃないか」
「旦那さんの面倒な連れ子だからって、都合よく追い出されたようなもんだろう」
すすり泣く声と噂話が、あちらこちらから上がる。
彼のたどる運命をどこかで予感しておきながら、手を差し伸べなかった人たちが、なぜ彼を思って泣けるのだろうか。不思議で仕方なかった。
試しに、すん、と鼻をすすってみる。
線香の匂いが、鼻をついただけだった。
「もしかして一星くん、自殺だったんじゃないの」
なぜ自分がここにいるのか、この景色がなんなのか、急に理解できなくなった。
「ちがう」
強烈な居心地の悪さは、言葉になって口をつく。
大人たちの噂話が、ピタリと止む。
視線が俺へと突き刺さる。
「あいつは自殺なんてしない」
遠くの祭壇を見る。
黒い額縁の中に、彼はいた。
きっかけは笑えてしまうくらい、陳腐だ。
薄暗い仕事のすべてが嫌になって、間違いを起こしそうになった。
そのとき、知名崎一星が書いた小説を読んだ。
雪に閉ざされた箱庭で暮らす、少女と優しい死神の話だった。
どうしようもなく救われてしまった。
救われた分だけ、彼を救おうと思った。
そして俺は、その仕事を終えた。
焼香は済んでいた。
だからもう、ここにいる理由は一つもなかった。
「あんた、一星くんとどういう関係だったんだい」
かすれた声とすれ違うようにして、会場を出た。
背伸びをする。息を吐く。
肺の奥に残った線香の香りが消えたところで、夢からさめたみたいに、途方もない空々しさと虚しさが流れ込んできた。
都会とはまったく違う澄んだ空気のせいか、気道が冷たくてかなわない。
「一本吸ったら、帰るか」
知名崎家の庭にある花は、丁寧に手入れされている。
それを横目に、煙草をくわえた時だった。
スーツの裾が、ぴんと引っ張られた。
振り返る。
そこには小さな女の子がいた。
ああ、目が彼にそっくりだ。
彼の妹か。
おどろいて声も出なかった。
あわてて、火のついていない煙草を取り落とす。
「どうした」
彼女はぼろぼろになった一枚の紙を、俺に差し出した。
一瞬ドキリとする。
でもそれは彼の日記ではない。
彼はもう、この世にはいないのだ。
「くれるのか」
唇をぎゅっと真横に結んだまま、彼女は遠慮がちにうなずいた。
小さな小さな手のひらから、紙を受け取る。
彼のために泣き続けていたのか、彼女は目も鼻も耳も真っ赤だった。
「これ、お兄ちゃんが送ってくれた手紙」
「手紙?」
そして彼女は、彼によく似た大きな目からぽろぽろと涙をこぼした。
しゃがんで頭をなでながら、なぜか俺は、ごめんなと口走っていた。
時間を告げるように、風が吹く。
あちこち裂け目が入った紙を、おそるおそる開いた。
「読んでいいよ」
「でもこれは、きみに宛てられた手紙だろう」
「読んで。お父さんとお母さんは、お兄ちゃんの手紙がきらいなんだって」
そこでようやく気づいた。
彼女はまだ、字が読めないのだ。
生前、そんな妹へ手紙を託した彼の心境を思うと、息が苦しくなったが、この状況では後に引けない。
「わかった」
それは、途方もない夜を泳ぐ一節から始まる。
天才と呼ばれた、知名崎一星が、この世に出すことのなかった物語だった。
物語は途中で途切れている。
その続きを、俺は託されていた。
ああそうか。彼は、彼女のために、残していたのか。
たとえ悲劇に見舞われようとも、世界でたった一人になっても、夜を泳ぎ、生きていくための物語を。
向かって吹く山の風は、乾いていた。
俺と彼女のそばを軽やかに駆け抜けて、思いを乗せる間もなく、過ぎ去っていく。
俺は俺を助けてくれた彼に、なにを返せたのだろうか。
風に聞いても答えなどない。
偉大な遺作だけが、確かだった。
( リビングデッド・スイマー )