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忘れるという才能

風が吹けば、どうなるか。
桶屋が儲かる。

ご存知の通り、桶屋が儲かるのである。

すごい。
一見して意味がわからんのに、皆わかってんのが、すごい。

ところで「風が吹けば桶屋が儲かる」は、
十返舎一九が書いた東海道中膝栗毛という作品で書かれた話だ。

いいよね。十返舎一九。
一度は口に出して言いたい名前No.1だよね。

東海道中膝栗毛は作り話だけど。
元になった実話もあるとか、ないとか。
あえて作り話にしたのは、読者を笑わせたかったからだとか。

敬愛するラーメンズさんは、それをコントにした。
もう1000回以上見たと思うけど、今でもゲラゲラ笑える。

笑い話と言えば、落語もすごい。
「まんじゅうこわい」とか、普通は意味わかんないじゃん。
でも、わかるじゃん。こわいじゃん。
落語家さんって、何度も何度も、同じ話をするのに、笑っちゃう。

江戸時代からずっと、同じ話をしてるのに。
一度話し始めればみんなの頭に情景が浮かんで、笑っちゃうの。
冷静に考えたら、本気ですごいことだと思うの。
死後、念が強まるタイプの話。

生きてる業界で言うと、柳沢慎吾さんが最強。

私は昔から、人を泣かせることよりも、
笑わせることの方がかっこいいと思っている。

泣いてる私を笑わせてくれたもの、いっぱいある。

藤子・F・不二雄さん原作の、ドラえもん映画。
波よ聞いてくれの、鼓田ミナレ。
ラーメンズさんの、コント。
加藤はいねさんの、ブログ。
又吉直樹さんの、エッセイ。
私の父の、しょうもない作り話。

思い出しても笑えるし、誰かに話したら
「あー!あれね」と笑いの輪が色褪せず、広がる。

ずっと、憧れてた。
でも、私にはずっと「笑わせる才能」がなかった。


私には「忘れる才能」があった。

14年前の夏、憧れだった父が突然死んだ。

よく「重くて辛いことばかりの人生を、よく頑張ってきたね」と
褒めてもらえることがあるが、恐れ多くて仕方がない。

私にとって生きるというのは、頑張ることではなかった。
ただ毎日「死なない」という選択肢を繰り返してきただけの結果だ。

父が死んで、母が下半身麻痺になって、障害のある弟と二人で過ごして、
正直辛かった。生活が辛いわけではない。
毎日毎日、悲しくて悲しくて、しょうがない。
それが辛かった。

でも、家族を残して、死ぬことはできなかった。
だから、生きた。
何を頑張るでもなく、ただ、毎日、死なないようにした。

その代わり、忘れることにした。
楽しい思い出も、悲しい死に様も、心の隅に追いやった。
そしたら、辛くないことに、気がついた。

父が死んだら、父のことを考えないようにした。
母が倒れたら、母のことを考えないようにした。

長い長い嵐の夜に、家の扉を締め切って、耳を塞いで、ただ凌ぐ。
そんな状況が、何年も、何年も続いた。


いつの間にか、嵐は止んでいた。

家の外に出て、太陽の眩しさに目を細めた時、
私にとって、父の死も母の苦境も、完全に過去となっていた。

私はもう、父の笑顔と声を、まったく思い出せない。
noteに書いているエピソードは全部、母から聞いた話だ。

後悔はしていない。
私には「忘れる才能」が残ったからだ。

この才能のおかげで、どれだけ嵐の夜を越えられただろう。

嫌な出来事に関しては、鶏が三歩歩くよりも先に忘れるものだから。
仕事で叱られた時なんかは数分後「反省してないやろ!」と
怒りの焚き火にハイオクガソリンぶちまける社会人になったけど。



話は変わりまして。
それからどしたの。(CV. :愛川欽也)


2019年12月30日、私は東京から神戸へ帰省した。

行きの新幹線は、それはもうすごかった。
あれは新幹線ではない。もはや家だ。
みんな新幹線に帰省してるのかと思った。

座れない人たちで大混雑のデッキにて。
ピクニックシートを広げ、おにぎりをかじる親子。
狭い通路でつっかえ棒のようになって眠る若者。
人の肩と肩の間で両頬をプレスされながらも、直立不動でゲームをするサラリーマン。

そこまでして実家に帰りたいのか。
いや、私もだけど。
人間の帰巣本能とはすげえなあと感嘆しながら、
スマホのメモ帳に、言葉で書き留めた。

無意識にその驚きを、見えているままに、残そうとしていた。

神戸に到着して、母と弟とばあちゃんで、スシローに行った。

愉快だ。
間違いなく愉快だけど、一言で説明が難しい。

家族の会話は、「楽しい」とか「悲しい」とか、
一言じゃ説明できない情報量にあふれている。

ばあちゃんは「あんたもっと食べえな!喋ってばっかおらんと」と怒りながら、笑っている。

弟は私にせっせとお茶を入れてくれていたが、粉末の抹茶と生わさびの容器を思いっきり間違えていた。

「これはワサビや!ドリフかお前は!」と私は泣き、喜んだ。

母は一人だけ我先にと、オニオンサーモンを集める作業に没頭していた。

笑っていたり、泣いていたり、一言では説明がつかない。

ちなみになぜ私がこんなに細かく説明できたかと言うと、
スマホのメモ帳に書き留めていたからだ。

愛しいなあ、と思った。

そして気がついた。
私は忘れるから、書こうとするのだ。

後から、情景も、感動も、匂いすらも、思い出せるように。
辛いことがあったら、心置きなく、忘れてもいいように。

父のように、もう忘れたりしないように。

どうせ後から読み直すなら、苦しくないよう、
少しばかりおもしろい文章で書こうかと。
無意識に私は、選択していたのだと思う。


そして今夏、たどり着いたのが、noteだった。

noteのおかげで、たくさんの人に
「ブラジャーの記事、面白かったです!」と声をかけてもらえた。
「赤べこの岸田さんです」と紹介してもらえることもあった。

「ああー!」と合点してもらえることに、ゾクゾクした。

年末に、佐渡島庸平さんと、前田高志さんが、こんな言葉をくれた。

「岸田さんの文章はね、落語家と一緒だよ。読めば、目の前で登場人物や情景が動いているみたいに感じる。それで、何度読んでも笑える」

「たくさん傷ついてきた岸田さんだから、誰も傷つけない、笑える優しい文章が書けるんだと思うよ」

めちゃくちゃ嬉しかった。

どれくらい嬉しかったかと言うと、この日、初対面だった前田さんから言われた「質問しますね」を「詰問(きつもん)しますね」と聞き間違えて、ダラダラ流れていた冷や汗が全部蒸発したくらい嬉しかった。

詰問はされなかった。ふう。

私は、落語家になりたい。
私は、コントの脚本家になりたい。
私は、ドラえもんになりたい。

私は欲張りだから、それらを全部ひっくるめた、物書きになりたい。

いつかどこかの食卓で、「風が吹けば」ならぬ「赤べこ」と切り出すだけで、思わず誰かが笑ったり、救われたり、そんなだいそれた未来がきたら、飛び上がるほど嬉しい。

私はきっと、今を忘れるだろうけど。

だから、2020年も書いていきたい。
知らない誰かが、笑って私の過去を、思い出してくれるように。

重い人生だから、せめて足取りくらいは軽くいたいね。

知らんけど。

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週末にグループホームから帰ってくる弟や、ばあちゃんと美味しいものを食べます。中華料理が好きです。